植民地化とリベリアの創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:54 UTC 版)
「奴隷制度廃止運動」の記事における「植民地化とリベリアの創設」の解説
19世紀の前半、様々な組織が作られて、黒人をアメリカ合衆国からもっと自由を享受できる場所に移住させることを主唱した。植民地化を推す者がおれば、移民を唱える者もいた。1820年代から1830年代にかけて、アメリカ植民地協会 (A.C.S.)が、アメリカの黒人をアフリカに戻すことで、奴隷制度を廃止する提案の主要な推進者であった。この協会は、このやり方が解放のために好ましいと見ていたヘンリー・クレイやジェームズ・モンローのような著名な指導者を含み、国中の白人から広い支持を得た。しかし、アフリカ系アメリカ人の中に多くの反対者がおり、植民地化はアメリカにおける困難な問題に対して実行可能とも容認できる解決法とも見ていなかった。この計画に対する顕著な反対者はボルティモアの富裕な自由黒人ジェイムズ・フォーテンであった。 西アフリカの海岸で小さな集落を作る幾つかの試みのあとで、A.C.S.は1821年から1822年にリベリアの植民地を作った。それから40年間にわたって、多くの元奴隷と自由黒人がそこに移住することを支援した。不十分な衛生状態や免疫の欠如などから、疫病が頻発し、移民の多くは直ぐに死んでしまったが、生き残った者は1847年にリベリアの独立を宣言した。しかし、植民地化支援は奴隷制度廃止論者の動きによって、1840年代から1850年代にかけて減衰していった。アメリカ系リベリア人は1980年のクーデターの勃発までリベリアを支配し続けた。
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