1840年代から1850年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:54 UTC 版)
「ワラキア」の記事における「1840年代から1850年代」の解説
アレクサンドル2世ギカの専横と厳しい保守主義支配に対する抵抗や、自由主義の台頭と急進主義の勃興は、イオン・クムピネアヌ(Ion Câmpineanu)による抗議活動の形で初めて表面化した(瞬く間に弾圧された)。そのためにますます政府打倒の陰謀が増え、ニコラエ・バルチェスクやミティカ・フィリペスク(Mitică Filipescu)といった若い士官らによって結成された秘密結社に勢力が結集していった。 1843年に結成された秘密結社フラツィア(Frăţia、ルーマニア語で友愛)は、1848年にはゲオルゲ・ビベスク政権を倒す革命、および組織規定(Regulamentul Organic)の無効化を計画し始めた(ヨーロッパ諸国で起きた1848年革命に触発されていた)。フラツィアらのワラキア全土クーデターは最初、群衆が6月9日(新暦では6月21日)のイスラズ宣言(en:Islaz Proclamation)に喝采をおくったトゥルヌ・マグレレ付近で成功しただけであった。宣言には、外国による保護制廃止、完全独立、農地解放、国民防衛隊の創設が盛り込まれていた。6月11日から12日、運動はビベスク公を退位させることに成功し、臨時政府が設立された。オスマン帝国は、革命の反ロシア的な目的に共感を感じていたものの、ロシアの圧力で革命運動を押さえつけた。トルコ軍は9月13日、ブカレストへ入った。ロシアとトルコの軍は、1851年まで占領を続けた。退位したビベスク公の次にワラキア公となったのは、ロシア皇帝とスルタンから指名されたバルブ・ディミトリエ・シュティルベイで、革命関係者の多くが国外へ亡命した。 クリミア戦争の間ロシアによるワラキア占領が事実上再開され、戦後にワラキアとモルダヴィアは中立国オーストリア帝国管理(1854年-1856年)におかれ、パリ条約に基づいて新たな地位を与えられた。条約には、オスマン帝国による宗主権をヨーロッパ列強(イギリス、フランス第二帝政、サルデーニャ王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の保障付きで認めること、列強の会議、カイマカム(en:kaymakam、トルコの地方長官職)主導の内政管理などが盛り込まれていた。ドナウ公国合同を目指す運動(最初1848年に要求され、亡命した革命家の帰還によって強固になった)が持ち上がり、フランス帝国とサルデーニャ、ロシア、プロイセンが援護した。しかし、他のすべての保護国は拒絶するか不審視した。 激しい運動の後、正式なモルドヴィア=ワラキア合同公国が最終的に承認された。協定によってそれぞれの公国は、現地出身の公と議会と選挙制議会を持つものの、両公国共通の司法裁判所を持つことになった。ボイェリの特権はこの時に廃止された。それにもかかわらず、1859年の暫定議会(Ad hoc Divans)選挙は法解釈の余地を突くことができるものであった(最終合意の原文には両公国それぞれの公位を明文化していたが、同時に一人の人物が、ブカレストのワラキア議会と、ヤシのモルダヴィア議会での選挙に立候補し当選することを妨げなかった)。自由主義政党パルティダ・ナツィオナラ(Partida Naţională)の合同主義者として立候補した軍人アレクサンドル・ヨアン・クザが、1月5日にモルダヴィアでモルダヴィア公に選出された。同様の投票結果が得られると合同主義者らが予想したワラキアでは、最高会議において多くの反合同主義者が返り咲きを果たし多数派となった。 このような状況で、ブカレストに集まった群衆が抗議行動を起こすと、議員らの支持傾向に変化が生じた。2月5日(旧暦では1月24日)、クザがワラキア公に選出された。これに伴いクザはモルドヴィア=ワラキア合同公国の公(Domnitor)として承認された(ルーマニア公国の成立、1861年以後はルーマニア公となる)。これで事実上の合同を果たしたのだが、合同公国が国際的に承認されたのはクザ一代の在位期間のみで、後任の公の在位期間における効力はなかった。クザは7年に及ぶ在位の間、寄進修道院所領の世俗化、農地改革、メートル法採用、刑法典と民法典整備(ナポレオン法典を模範とする)、教育制度整備を行った。これらの改革活動によってクザは保守・自由両派と対立を繰り返すようになった。クザが支持を失い1866年2月に退位させられた後、合同を維持することを第一に考えた臨時政府は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール公子(カロル1世)を新たな公に選んだ。同年7月1日に憲法が制定され(1866年7月1日憲法)、正式に国名がルーマニアとなった。カロルの即位以後、両公国の合同は解消できないことになった(普墺戦争と同時期であった。この時オーストリアは決定に反対の立場をとったが、干渉する立場になかった)。 サン・ステファノ条約、ベルリン会議を経て、ルーマニア王国が独立国家として正式に列強から承認されるのは、1881年のことである。
※この「1840年代から1850年代」の解説は、「ワラキア」の解説の一部です。
「1840年代から1850年代」を含む「ワラキア」の記事については、「ワラキア」の概要を参照ください。
- 1840年代から1850年代のページへのリンク