1840年代の大改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:24 UTC 版)
「ヨーク競馬場」の記事における「1840年代の大改革」の解説
競馬場では新たにジョン・オートン(John Orton)というヨークの商人を招聘し、改革を任せることにした。オートンはイギリス各地の競馬場の運営に携わった実績があるとともに、商才に長けた人物だった。 オートンはまず、以前から行われていた「グレートヨークシャーステークス」という名前の小レースをクラシックスタイルに変更した。ダービーステークスやセントレジャーと同じようにレースの2年前からクラシック登録料をとって馬を集め、これに競馬場の基金からも賞金を拠出する方式に変えた。このレースは3歳馬用で、負担重量もダービーと同じ、距離はセントレジャーとほぼ同じ13/4マイル、施行時期はセントレジャーの数週間前の8月に行うこととした。当時は歩いて競馬場を移動していたから、セントレジャーを開催するドンカスター競馬場に近いヨーク競馬場で行うこのレースは、時期も距離も負担重量もぴったりだった。わずか2年前のこのレースでは数頭しか集まらずに賞金総額60ポンドだったのに、この改革によって140頭の登録馬が集まり、賞金は1500ポンドほどにまで跳ね上がった。改革1年目の1843年のレースで2着にきたナットウィズという馬が翌月のセントレジャーに勝った。 もう一つの目玉がイボアハンデの創設で、これは初めての全国規模のハンデ戦となり、高い賞金にひかれて54頭以上の登録馬を集めた。が、そのうち39頭は出走を取りやめた。出走馬が減ったのはアリスホーソン(Alice Hawthorn)という牝馬が出走すると言ったからである。アリスホーソンは既にチェスターカップに勝っている強い馬で、60kgのハンデでも出走してきた。しかし結果的にはアリスホーソンは敗れ、50kgの斤量で勝った馬が賞金の650ポンドあまりを獲得し、ハンデ戦ならではの魅力が宣伝される格好になった。アリスホーソンは後にダービー馬で種牡馬チャンピオンのソーマンビーを産んでいる。ジョージ・タタソールは1844年に「ヨークに輝きが復活した」、1845年には「昨年をさらに大きく上回った」と評している。 オートンはこのあとまもなく死んでしまったが、ヨーク競馬場ではすぐにジムクラックステークスやヨークシャーオークスを新設してますます人気となり、イングランドを代表する人気競馬場となった。特に1851年のヴォルティジュール対ザフライングダッチマンの「グレートマッチ」は「イギリス競馬史上最も有名なレース」とまで言われるものであり、ヨーク競馬場の名声を決定づけた。
※この「1840年代の大改革」の解説は、「ヨーク競馬場」の解説の一部です。
「1840年代の大改革」を含む「ヨーク競馬場」の記事については、「ヨーク競馬場」の概要を参照ください。
- 1840年代の大改革のページへのリンク