ダービーステークス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 16:10 UTC 版)
ダービーステークス(Derby Stakes)は、イギリスのエプソム競馬場(芝、1マイル4ハロン6ヤード、約2420メートル)で行われる競馬の競走である。
注釈
- ^ 現在、バンベリー準男爵の名を冠したバンベリーカップenと言う競走もあり、ニューマーケット競馬場で行われている。
- ^ 4頭がもつれあってゴール、決勝審判は1番人気のクラガノール(Craganour)が1着、アタマ差の2着に単勝101倍の大穴アボイヤール(Aboyeur)、クビ差の3着に2000ギニー優勝馬のルーヴォイス(Louvois)と判定した。一度は確定(all right)を知らせる旗があがったが、主席裁決委員が異議を申し出て審議が行われた。審議の結果、ゴール直前にクラガノールがアボイヤールの妨害を行ったとして、判定が覆ってクラガノールは失格、アボイヤールが優勝と裁定された。一度確定サインが出たので、既にクラガノール優勝の馬券の払い戻しを始めていたブックメーカーもいた。これ以降、イギリスの競馬界は「確定」の用語を使わなくなった。なおこの主席裁決委員はクラガノールの生産者であった。当時の観客は、裁定とは逆に、ゴール前の混戦ではアボイヤールが加害馬でクラガノールが被害馬であると考えていたという。この年の2000ギニーでは、クラガノールとルーヴォイスが内外大きく離れてゴールに入り、決勝審判によってルーヴォイス1着と判定された。しかし実際には反対側にいたクラガノールのほうが1馬身前にいたのではないかとの疑いがある(当時はまだ写真判定導入前だった)。クラガノールの馬主は、前年に沈没して1500名あまりの死者を出したタイタニック号の社主の一族で、同社のブルース・イズメイ会長はタイタニック号に乗り合わせていたが自分は助かっていた。クラガノールの馬主はその実弟バウアー・イズメイであり、当時この一族はイギリス中から白眼視されていた。2000ギニーとダービーの主席裁決委員は同一人物であり、馬主であるバウアーはこの主席裁決委員の義理の妹と不倫をしており、主席裁決委員も個人的にバウアーを嫌悪していたという。また、この時の裁決委員は、規定上の定数3名に足りず、2名しかいなかったことがわかっている[5][6][7]。
- ^ エミリー・デイヴィソンは、オックスフォード大学を卒業したあと、婦人参政権の活動家となって示威行為を繰り返し、7年間に9回投獄されている。罪状のなかには、ロンドンの路上の電信柱への放火、議会への侵入などがある。監獄ではハンガーストライキを行って3回出獄している[5][6]。
- ^ エミリー・デイヴィソンが加害した馬が国王の所有馬であったために、当時、彼女は王室を狙って注目を集めようとしたのだろうとみなされた。しかし、もとから彼女と行動をともにしていた一部の活動家を除いて、当時の世間の多くはその行為を賞賛しなかった。エミリーは実際には先頭を走っていたアボイヤールに近づこうとしたがうまくいかず、最後尾から3頭目を進んできたアンマーに接触している。今では、彼女には馬の見分けはつかず、衝突した馬がたまたま王室の馬だったのだろうと考えられている。また、彼女は帰りの切符などを所持していたことから、自身の命を賭すつもりはなく、意図せず誤って馬に衝突したものと今では考えられている[5]。ただし彼女は遺書などを携えていなかったので、真意がどうであったかはわかっていない[6][5]。
- ^ アクトン氏(Mr.Acton)とは、当時のロスチャイルド家当主のライオネル・ド・ロスチャイルドが使っていた仮定名称である[15]。ただし、実際にはその息子のレオポルド・ド・ロスチャイルドが実務を担っていたと広く考えられている[15]。レオポルドは1904年にSt. Amantで自分自身の名義でダービーを勝った[15]。なお、ライオネルはこの競走の6日後の1879年6月3日に死去している。
出典
- ^ IFHA Investec Derby 2014年12月4日閲覧。
- ^ 【世界史の遺風】(8)ダービー卿-馬で名を残した英国貴族(MSN産経ニュース 2012年5月24日)
- ^ 原田俊治『世界の名馬』(サラブレッド血統センター)、209頁。
- ^ 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p27-35「ランニングレイン事件」
- ^ a b c d e f 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p83-88「もっとも不運な牡駒」
- ^ a b c d 『The Derby : A celebration of the world's most famous horse race』p146-151「Tragedy at Tattenham Corner」
- ^ a b 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p2「Aboyeur」
- ^ 『英国競馬事典』p55「エプソム競馬場」
- ^ CHANGES TO FLAT RACE DISTANCE MEASUREMENTS - British Horseracing Authority、2017年6月25日閲覧
- ^ a b c d “英ダービー、新スポンサーが決定”. JRA-VAN ver.World. 2021年4月2日閲覧。
- ^ “オーギュストロダン制覇の英ダービーに乱入者、逮捕者31人に | JRA-VAN World - 海外競馬情報サイト”. JRA-VAN Ver.World - 海外競馬. 2023年7月3日閲覧。
- ^ “英国ダービー、インベステック社との長期契約で最高額レースに返り咲く(イギリス)[開催・運営] - 海外競馬ニュース - 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル (JAIRS)”. jairs-cs2.coresoft-net.co.jp. 2021年4月2日閲覧。
- ^ “ダービーと英オークス、ブックメーカーのベットフレッドが新スポンサーに” 2023年6月7日閲覧。
- ^ ニューヨーク・タイムズ氏 1879年5月29日付 2013年11月29日閲覧
- ^ a b c 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p67-69「ロスチャイルド家の幸運」
- ^ a b 60 Facts and Figures about the Epsom Derby
- 1 ダービーステークスとは
- 2 ダービーステークスの概要
- 3 概要
- 4 歴史
- 5 記録
- 6 外部リンク
ダービーステークス
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「ガルティーモア」の記事における「ダービーステークス」の解説
ダービーステークスは6月2日に開催され、晴天の中大観衆を迎えて行われた。ガルティーモアは事実上無敵と見なされ、レース史上2番目に低い単勝1.25倍の支持を受けた。ヴェラスケスは11倍の2番人気で、他の8頭は26倍以上だった。ウッドへのガビンズの指示は「コーナーを恐れず、できるだけ早く行ってもらいたい」というシンプルなものだった。プライムミニスターとアルバート・エドワード皇太子の所有馬であるオークデンの2頭が先頭を引っ張り、ウッドはガルティーモアを好位に付けさせた。直線前半でガルティーモアとヴェラスケスがオークデンを追い越すとマッチレースの様相を呈した。ヴェラスケスは「勇敢に」走ったが、明確な差を付けたガルティーモアは「キャンターで」 2馬身差で勝ち、3着のヒストリーにはさらに8馬身差を付けた。レース終了後、ガルティーモアは熱狂的な観客に囲まれたが、尻尾から毛が抜かれても、落ち着いて反応していた。アイルランドでは、本馬の勝利が熱狂的な祝賀ムードを引き起こし、「サクソン人の屈辱」を記念して、馬名の由来となったガルティーモア山の頂上で焚き火が焚かれた。 その後、ガルティーモアはロイヤルアスコット開催のプリンスオブウェールズステークスに出走し、16ポンド軽い斤量で単勝34倍で出走した3頭を相手に「最も一般的なキャンター」で勝利した。続けてサンダウン競馬場のサンドリンガムゴールドカップで唯一の対戦相手であるコルテガーを破り、1180ポンドの賞金を獲得した。一方、この時期には、エクリプスステークスでヴェラスケスに楽勝した4歳馬のパーシモンとの対戦機会がほとんどなかったことに対する失望が表明された。
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