オーエンテューダーとは? わかりやすく解説

オーエンテューダー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 00:14 UTC 版)

オーエンテューダー
欧字表記 Owen Tudor
品種 サラブレッド
性別
毛色 青鹿毛
生誕 1938年
死没 1966年
Hyperion
Mary Tudor II
母の父 Pharos
生国 イギリス
生産者 Catherine Macdonald-Buchanan
馬主 Catherine Macdonald-Buchanan
調教師 Fred Darling
競走成績
生涯成績 13戦6勝
獲得賞金 7,670ポンド
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オーエンテューダーOwen Tudor1938年 - 1966年)とは、イギリスサラブレッド競走馬である。第二次世界大戦中の1941年エプソムダービーに優勝し、のちに種牡馬としても成功した。

経歴

父は名種牡馬ハイペリオン、母はプール・デッセ・デ・プーリッシュ(フランス1000ギニー)やヴェルメイユ賞に勝ったフランスの競走馬メアリーテューダーであった。白斑のない青鹿毛の牡馬で、わずかに膝が曲がっていたという。

1941年にフレッド・ダーリン英語版調教師のもとで競走馬デビューした。初戦となったソールズベリーステークスを快勝し、このほか2戦してボスコーウェンステークスで2着に入っている。この年の2歳牡馬のなかで、オーエンテューダーは第8位に相当するフリーハンデを与えられている。

オーエンテューダーが3歳になった1942年はまさに第二次世界大戦の真っただ中で、主要競走のいくつかは他の競馬場で代替開催されていた。エプソムダービーエプソム競馬場を離れ、ニューマーケット競馬場にて「ニューダービー」という代替競走として施行されていた。オーエンテューダーは単勝26倍の穴馬扱いながらもこれを優勝、祖父ゲインズバラ・父ハイペリオンに続く3代ダービー優勝と成し遂げた。同年はこのほかニューマーケットセントレジャー(代替セントレジャーとは別競走)、コラムステークスに勝っている。

4歳時には同じくニューマーケット競馬場に疎開していたゴールドカップに出走、これに優勝した。この年で引退し、翌年より種牡馬となった。

引退後

種牡馬としても多くの活躍産駒を出して成功し、リーディングサイアーにこそならなかったものの、1961年にはフランスの種牡馬ランキングで2位に入っている。

最も代表的な産駒にテューダーミンストレルがいる。同馬はマイル以下の競走で圧倒的な強さを誇り、2000ギニーなどで8勝を挙げた。一方でそれ以上の距離では不可解な敗戦をしたので、後世にはマイラーとして評価されている。同じく短距離路線で活躍した馬で、ジュライカップ連覇などをしたアバーナントもまたオーエンテューダーを代表する産駒である。フランスでもプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)やジョッケクルブ賞を制したライトロワイヤルが出ており、同馬はイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで同年の英二冠馬セントパディを破っている。

この他の産駒に、マルセル・ブサック所有のもとでアスコットゴールドカップとカドラン賞を制したエルペノール、アメリカマンノウォーステークスなどに勝ったテューダーイラ、ホワイトローズステークスなどに勝ったテューダーペリオッドらがいる。後継の種牡馬にも恵まれ、一時は日本でもハマノパレードテンメイが出るなど繁栄したが、現在ではテューダーミンストレルの後継がイギリスに残る程度である。

オーエンテューダーは1960年に種牡馬を引退、それから6年後、25歳のときに死亡した。

評価

主な勝鞍

※当時はグループ制未導入

1940年(2歳) 3戦1勝
ソールズベリーステークス
2着 - ボスコーウェンステークス
1941年(3歳) 7戦3勝
ニューダービー、ニューマーケットセントレジャー、コラムステークス
1942年(4歳) 3戦2勝
ニューマーケットゴールドカップ

血統表

オーエンテューダー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ハイペリオン系
[§ 2]

Hyperion
1930 栗毛 イギリス
父の父
Gainsborough
1915 鹿毛 イギリス
Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
父の母
Selene
1919 鹿毛 イギリス
Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette

Mary Tudor II
1931 鹿毛 フランス
Pharos
1920 鹿毛 イギリス
Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
母の母
Anna Bolena
1920 鹿毛 フランス
Teddy Ajax
Rondeau
Queen Elizabeth Wargrave
New Guinea
母系(F-No.) (FN:10-b) [§ 3]
5代内の近親交配 Chaucer 3×4、St.Simon 4・5×5、Bay Ronald 4×5、Cyllene 5×5、Galopin 5・5(父系内) [§ 4]
出典
  1. ^ [1]
  2. ^ [2]
  3. ^ [1]
  4. ^ [1]

参考文献

  • The Encyclopaedia of Flat Racing(1986 著者:Howard Wright、出版:Robert Hale。 ISBN 0-7090-2639-0

脚注

  1. ^ a b c 血統情報:5代血統表|Owen Tudor(GB)”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年8月9日閲覧。
  2. ^ 小林皓正(編)『サラブレッド血統マップ'93』コスモヒルズ、1993年、18-19頁。 

外部リンク


オウエン・テューダー

(オーエンテューダー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 06:54 UTC 版)

オウエン・テューダー
Owen Tudor
オウエン・テューダーの紋章

全名 Owain ap Maredudd ap Tudur  (ウェールズ語)
出生 1400年
ウェールズアングルシー島
死去 1461年2月2日
埋葬 イングランド王国ヘレフォード、グレイフライヤーズ教会
配偶者 キャサリン・オブ・ヴァロワ
子女 エドマンド
ジャスパー
オウエン
マーガレット
家名 テューダー家
父親 メレディス・アプ・テューダー英語版
母親 マーガレット・フェルチ・ダフィッド
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サー・オウエン・テューダー(Sir Owen Tudor, ウェールズ語:Owain Tudur, 1400年頃 - 1461年2月2日)は、イングランドの騎士。イングランド王家となったテューダー家の祖。メレディス・アプ・テューダーの子でエドマンド・テューダージャスパー・テューダーの父、イングランド王ヘンリー7世の祖父。

ウェールズ人の系譜

テューダー家はウェールズ出身で、その祖はグウィネズ英語版サウェリン・アプ・イオルウェス英語版とその息子ダヴィッズ・アプ・サウェリン英語版の部下として戦った戦士エドナヴェッド・ヴァハン英語版(1246年没)である。オウエン・テューダーはエドナヴェッド・ヴァハンの男系の昆孫にあたる。

生涯

テューダー家はオワイン・グリンドゥール(父の従弟)が起こした反乱に一族を挙げて加担したため没落、オウエンはロンドンへ移住した父メレディスの尽力で王宮への出仕を許された[1]

初め宮廷の雑用係だったが、百年戦争における1415年アジャンクールの戦いに参加し、その戦功によりイングランド王ヘンリー5世から従騎士(騎士の従者)に任命され、ささやかながら出世を果たした[1][2][3]

1422年のヘンリー5世亡き後も王宮に留まり、未亡人でヘンリー6世の母后キャサリン・オブ・ヴァロワの納戸係秘書官として翌1423年頃から仕えていたが、1424年から事実上の婚姻関係を結んだとされ、1430年に誕生した長男エドマンドをはじめ2人の間に3子(または4子)が生まれた[4]。若くして未亡人となったキャサリン王太后は、枢密院の許可がない限り再婚が認められておらず、1437年に38歳で没するまで2人の結婚が正式な手続きに於いて認められることはなかった。この頃、オウエン・テューダーは、祖父テューダー・アプ・ゴロヌイ英語版の名から、英語風に「テューダー」を家名とした[5]

キャサリン王妃の死後オウエンの立場も危うくなり、密通の罪で投獄されたが、1439年から1440年の間に釈放された。その後は王室府官吏に取り立てられ、長男エドマンドおよび次男ジャスパーの兄弟と、異父兄(ヘンリー5世の子、当時の正規の王統)であるヘンリー6世との仲は良く、世間の暗黙の了解の上での(事実上)公認の弟となり、1452年にエドマンドをリッチモンド伯イングランド)、ジャスパーをペンブルック伯ウェールズ)に叙爵した[6]。テューダー家の末裔がウェールズに戻ったことに、ウェールズの民は歓喜した[6]。こうしてテューダー家は一転して王室の庇護を受ける上級貴族にのし上がった[2][7]

その結果、長男エドマンドは、1455年サマセット公ジョンの唯一の嫡出子マーガレット・ボーフォートと結婚した。マーガレットはランカスター家の血を引いており、2人の子であるリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは傍系ながら王位継承権を持つこととなった(後のイングランド王ヘンリー7世)。

薔薇戦争ではヘンリー5世やヘンリー6世の属するランカスター派の一員としてウェールズの軍勢を率いたが、1461年にモーティマーズ・クロスの戦いヨーク派のマーチ伯エドワード(後のエドワード4世)に敗れて捕らえられ、後に処刑された[8]。なお、共に参戦していた次男ジャスパーはこの戦場を離脱することに成功した[2][9][10]

イングランド王への系譜

ヘンリー6世が崩御し、その王太子エドワードも1471年にヨーク派に敗れて敗死すると、オウエンの孫であるヘンリーは、ランカスター家の最後の男子となった[11]。ヘンリーはウェールズのペンブローク城で育ったが、13歳の時に再会した伯父のジャスパーが、ヘンリーをブルターニュ公国へ逃れさせ、捲土重来を期した[12]

リチャード3世の受け皿として勢力を拡大し、最終的に1485年8月22日のボズワースの戦いで勝利して、テューダー朝を開闢した。こうしてオウエンとキャサリン王妃の結婚から、ウェールズの血を引くイングランド王「ヘンリー7世」が誕生することとなった。ウェールズの人々は、ヘンリーにアーサー王を重ねて歓喜した[13]

キャサリンの墓には「ヘンリー5世の未亡人」であることしか書かれていなかったが、孫のヘンリー7世により、自身の出自を明確にする意図から「オウエン・テューダーと結婚」した旨が追記された[14]。これ以降、キャサリンとオウエンの結婚は公認のものとなった。

子女

キャサリンとオウエンには3子、または4子(3男1女)があったとされる。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b 桜井 2017 p.192
  2. ^ a b c 森 1994(英国王室史事典) p.282
  3. ^ 尾野、P32、ロイル、P426
  4. ^ 桜井 2017 p.192-194
  5. ^ 石井 1993 p.34
  6. ^ a b 桜井 2017 p.195
  7. ^ 尾野、P32 - P33、ロイル、P160
  8. ^ 桜井 2017 p.199-200
  9. ^ 桜井 2017 p.200
  10. ^ 尾野、P124、ロイル、P254
  11. ^ 桜井 2017 p.211
  12. ^ 桜井 2017 p.202-214
  13. ^ 桜井 2017 p.238-240
  14. ^ 森 1994(英国王妃物語) p.81

参考文献





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