ダイオメド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/16 14:02 UTC 版)
ダイオメド | |
---|---|
![]()
George Stubbsによる肖像
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欧字表記 | Diomed[1] |
品種 | サラブレッド[1] |
性別 | 牡[1] |
毛色 | 栗毛[1] |
生誕 | 1777年[2] |
死没 | 1808年[3] |
父 | Florizel[1] |
母 | Spectator Mare[1] |
生国 | ![]() |
生産者 | リチャード・ヴァーノン[2] |
馬主 | トマス・チャールズ・バンベリー[2] |
競走成績 | |
生涯成績 | 20戦11勝(Thoroughbred Heritage)[4] 19戦11勝(Lennox(1857))[5] |
獲得賞金 | 7,945ギニー[5] |
勝ち鞍 | エプソムダービー(1780年) |
ダイオメド[注 1](Diomed、1777年[1][2] - 1808年[3])はイギリスの競走馬。第1回エプソムダービー(1780年)の勝ち馬である。引退後は同地で種牡馬となり、後にアメリカに輸出された。イギリスでの種牡馬成績は振るわなかったが、輸出先のアメリカでは既に高齢であったにもかかわらず、サーアーチーなどを出す活躍を見せた。
馬主チャールズ・バンベリーはオークスとダービーの創設者の1人でもあり[8]、ダイオメドのほかエレノア(1801年)、スモンレスコ(1813年)でダービーを勝っている[6]。
生涯
父はヘロド産駒のフロリゼル、母はスペクテイターの牝駒(Spectator mare[注 2])で[10]、1777年、ニューマーケットのリチャード・ヴァーノンによって生産され、後にバンベリーの所有となった[2]。体高15ハンド3インチ[注 3][6]、馬格の逞しい栗毛馬であった[11]。
競走馬時代
3歳の時、ニューマーケットのスウィープ・ステークス(500ギニー)で勝利をあげた後[12]、5月4日に行われた第1回エプソムダービーに出走した[6][12]。当初のダービーはそれほど重要な競走とは考えられておらず、登録馬は36頭で、うち9頭が出走したに過ぎなかった[6]。ダイオメドはBoudrooやSpitfireらを下して勝利を飾り、初代ダービー馬となった[12]。
ダービー勝利後も負け知らずで、3歳を7戦無敗で終えると、4歳になってからも勝ち続け連勝を10まで伸ばした[4]。しかし、ノッティンガムでFortitudeに初の敗戦を喫すると、ニューマーケットでもBoudrooに敗れ[13]、3勝2敗でシーズンを終えた[5]。
5歳時はニューマーケットでCropに対して棄権するなど、1度もレースに出走しなかった[5][13]。翌年、ギルフォードでのキングズプレート(4マイルのヒート)に勝利して復帰戦を飾ったが、その後は7戦[注 4]して1度も勝利できず、ウィンチェスターで跛行の症状が出たため、馬主の判断で競走馬を引退した[4]。
種牡馬時代

引退後、ダイオメドはハンプシャーのアップパークで種牡馬として供用された後、サフォークのバートンに移動した[14]。その間、5ギニーで始まった種付料は一時10ギニーまで上がるも、その後は2ギニーまで下がっている[6]。代表産駒として、ロシアに輸出されたGray Diomed、エレノア(前述)の母として知られるYoung Giantessが挙げられるが[6]、同地での種牡馬成績は失敗であったとされている[注 5][6][14][15]。
1798年、ダイオメドは既に21歳となっていたが、バンベリーによって50ギニーで売却され、アメリカに輸出された[注 6][6]。同地ではイギリスで低下していた受胎能力がよみがえり[14]、1803年にはリーディングサイアーを獲得している[14]。ダイオメドは高齢で輸出されながら10年にも渡り生き続け、その間、米国の競馬界に君臨することとなった[16]。自身はサーアーチー、デュロック、ハイニーズマリアなどの産駒を送り出し[4]、また、アメリカでリーディングサイアーを16回獲得した[17]レキシントンにも血を伝えている[注 7][15][19]。
1808年、31歳で死亡[3]。この年にも種付が予定されていたという[7]。その死には、ジョージ・ワシントンの死と並ぶほどの哀悼が捧げられた[11][14]。
競走成績
以下の情報はThoroughbred Heritage(THと記載)[4]、Lennox (1857)[5]に基づく。
年 | 馬齢 | 成績 | 獲得賞金(ギニー) | |
---|---|---|---|---|
TH | Lennox(1857) | |||
1780 | 3 | 7戦7勝 | 7戦7勝 | 5,165 |
1781 | 4 | 5戦3勝 | 5戦3勝 | 2,680 |
1782 | 5 | - | - | |
1783 | 6 | 8戦1勝 | 7戦1勝 | 100 |
計 | 20戦11勝 | 19戦11勝 | 7,945 |
血統表
ダイオメドの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ヘロド系 |
[§ 2] | ||
父
Florizel I 1768 鹿毛 |
父の父
Herod1758 鹿毛 |
Tartar | Partner | |
Meliora | ||||
Cypron | Blaze | |||
Selima | ||||
父の母
Cygnet Mare1761 芦毛 |
Cygnet | Godolphin Arabian | ||
Blossom | ||||
Young Cartouch Mare | Young Cartouch | |||
Ebony | ||||
母
Spectator Mare 1763 鹿毛 |
Spectator 1749 鹿毛 |
Crab | Alcock's Arabian | |
Sister to Soreheels | ||||
Partner Mare | Partner | |||
Bonny Lass | ||||
母の母
Horatia1758 鹿毛 |
Blank | Godolphin Arabian | ||
Little Hartley Mare | ||||
Flying Childers Mare | Flying Childers | |||
Miss Belvoire | ||||
母系(F-No.) | 6号族(FN:6-b) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Crab M3×S5、Partner S4×M4、Flying Childers M4×S5×S5、Godolphin Arabian S4×M4、Curwen Bay Barb Mare S5×M5×M5 | [§ 4] | ||
出典 |
脚注
注釈
- ^ カナ表記はほかにダイオミード[6]、ダイアメド[7]がある。
- ^ "Sister to Juno"とも[4][9]。
- ^ 北原 (1964)は、「現在から見れば、小柄な馬であった」と述べている[6]。
- ^ Lennox (1857)では6歳の成績を7戦1勝とする[5]。
- ^ 種牡馬成績について、北原 (1964)は「芳しくなかった」[6]、ロングリグ・原田 訳 (1976)は「失敗」[14]、合田 (2004)は「まったく役に立たず」[15]と述べている。
- ^ なお、アメリカ上陸後には1,000か1,200ギニーで転売されている[13]。
- ^ ダイオメドはレキシントンの4代父にあたる[18]。なお、レキシントンはダイオメド4×4×5の近親交配を持つ[19]。
出典
- ^ a b c d e f g h “Diomed(GB)”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2025年7月5日閲覧。
- ^ a b c d e Skinner, J. S. (1831). “MEMOIR OF DIOMED.”. American turf register and sporting magazine. Vol.2. University of New Hampshire Library. Baltimore, Md. : J.S. Skinner. p. 521
- ^ a b c Skinner, J. S. (1831). “MEMOIR OF DIOMED.”. American turf register and sporting magazine. Vol.2. University of New Hampshire Library. Baltimore, Md. : J.S. Skinner. p. 525
- ^ a b c d e f Peters, Anne. “Diomed”. Thoroughbred Heritage. 2025年7月5日閲覧。
- ^ a b c d e f Lennox, Lord WIlliam (1857). “SPORTING OLLA PODRIDA” (英語). The New sporting magazine. 34. p. 146
- ^ a b c d e f g h i j k 北原義孝「英国ダービーの名馬」『優駿』1964年6月号、日本中央競馬会、43頁。
- ^ a b 佐藤正人『わたしの競馬研究ノートの15』日本中央競馬会、1991年、280頁。
- ^ “Sir Thomas Charles Bunbury 6th Bart”. Legacies of British Slave-ownership (英語). University College London. 2025年7月5日閲覧.
- ^ a b c “Diomedの血統表”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ. 2025年7月5日閲覧。
- ^ ロジャー・ロングリグ 著、原田俊治 訳『競馬の世界史』日本中央競馬会、弘済会、1976年、87頁。
- ^ a b 「11 第1回優勝馬ダイオメド」『サラブレッドのルーツをたずねて』根岸競馬記念公苑、1982年。
- ^ a b c Skinner, J. S. (1831). “MEMOIR OF DIOMED.”. American turf register and sporting magazine. Vol.2. University of New Hampshire Library. Baltimore, Md. : J.S. Skinner. p. 522
- ^ a b c Skinner, J. S. (1831). “MEMOIR OF DIOMED.”. American turf register and sporting magazine. Vol.2. University of New Hampshire Library. Baltimore, Md. : J.S. Skinner. p. 523
- ^ a b c d e f ロジャー・ロングリグ 著、原田俊治 訳『競馬の世界史』日本中央競馬会、弘済会、1976年、206頁。
- ^ a b c 合田直弘「世界の種牡馬供用システムの動向」『Hippophile』17号、日本ウマ科学会、2004年、26頁。
- ^ C.E.G.ホープ、N.ジャクソン、佐藤正人(翻訳監修)「Derby(ダービー)」『エンサイクロペディア馬』みんと、1976年、128頁。
- ^ Peters, Anne. “Lexington”. Thoroughbred Heritage. 2025年7月5日閲覧。
- ^ “血統情報 Lexington(USA)”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2025年7月5日閲覧。
- ^ a b エイブラム・S.ヒューイット 著、佐藤正人 訳『名馬の生産:世界の名生産者とその方式』サラブレッド血統センター、1985年、17,24頁。
- ^ a b c “5代血統表 Diomed(GB)”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2025年7月5日閲覧。
参考文献
- Skinner, J. S. (1831). “MEMOIR OF DIOMED.” (英語). American turf register and sporting magazine. Vol.2. University of New Hampshire Library. Baltimore, Md.: J.S. Skinner
- Lennox, Lord WIlliam (1857). “SPORTING OLLA PODRIDA” (英語). The New sporting magazine. 34
- 北原義孝「英国ダービーの名馬」『優駿』1964年6月号、日本中央競馬会。
- C.E.G.ホープ、N.ジャクソン、佐藤正人(翻訳監修)『エンサイクロペディア馬』みんと、1976年。doi:10.11501/12639779。
- ロジャー・ロングリグ 著、原田俊治 訳『競馬の世界史』日本中央競馬会、弘済会、1976年。doi:10.11501/12441205。
- 「11 第1回優勝馬ダイオメド」『サラブレッドのルーツをたずねて』根岸競馬記念公苑、1982年。doi:10.11501/12441254。
- エイブラム・S.ヒューイット 著、佐藤正人 訳『名馬の生産:世界の名生産者とその方式』サラブレッド血統センター、1985年。doi:10.11501/12639921。
- 佐藤正人『わたしの競馬研究ノートの15』日本中央競馬会、1991年。doi:10.11501/12441142。
- 合田直弘「世界の種牡馬供用システムの動向」『Hippophile』17号、日本ウマ科学会、2004年、26頁。doi:10.11501/11694759。
ウェブサイト
- Peters, Anne. “Diomed”. Thoroughbred Heritage. 2025年7月5日閲覧。
- Peters, Anne. “Lexington”. Thoroughbred Heritage. 2025年7月5日閲覧。
外部リンク
固有名詞の分類
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