ザフライングダッチマンとは? わかりやすく解説

ザフライングダッチマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:53 UTC 版)

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ザフライングダッチマン
1851年5月13日ヨーク
ヴォルティジュールとのグレートマッチ
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1846年2月27日
死没 1870年
ベイミドルトン
バーベル
生国 イギリス
生産者 ヘンリー・ヴァンシタート
馬主 アール・オブ・エグリントン
調教師 ジョン・フォバート
競走成績
生涯成績 16戦15勝
獲得賞金 -
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ザフライングダッチマン (The Flying Dutchman) はイギリス競走馬である。19世紀中ごろの強豪で16戦15勝、エプソムダービーセントレジャー、大ロシア皇帝陛下プレート(現在のアスコットゴールドカップ)勝ちなどの成績を残した。セントサイモンの父ガロピンブルードメアサイアーでもある。

2歳時はシャンペンステークスなど5戦5勝、3歳になっても勢いは止まらず8か月ぶりに出走したエプソムダービーでもホットスパーを下し勝利、さらにセントレジャーも勝利しイギリスクラシック二冠を達成した。4歳になっても大ロシア皇帝陛下プレートを8馬身で圧勝するなどしたが、ドンカスターカップで生涯唯一の敗戦を喫している。相手は無敗の二冠馬ヴォルティジュール(セントサイモンの父方祖先)で、ザフライングダッチマンの騎手チャールズ・マーロウは泥酔しての出走だった。このため馬主・エグリントンはすぐに再戦を申し込み、翌年2頭のマッチレースが実現した。

マッチレースはヨーク競馬場の2マイルで行われ、掛け率は互角。ザフライングダッチマンには名誉回復のためにマーロウが跨っていた。レースは当初ヴォルティジュールが先行し、その3馬身後をザフライングダッチマンが追った。そして直線入り口からゴールまでは2頭ならんでの激闘が展開され、競馬史に残るマッチレースとして現代に語り継がれている。結果は徐々に差を詰めたザフライングダッチマンが先にゴールに達し、1馬身差でヴォルティジュールに雪辱した。ザフライングダッチマンはこのレースを最後に現役を退いている。なおマーロウは名誉回復を果たしたものの、泥酔の件が大きく響いて信用を失い、次第に競馬界から追い出される形となり、最期は貧乏窟で亡くなった。

引退後は種牡馬となったがほどなくフランスに輸出された。現役時代からの期待に比べれば成功したとはいえないが、フランスでの産駒ドラールがアンドロクレスを出し直系を繋いでいる。子孫はトウルビヨンや日本ではシンボリルドルフメジロマックイーントウカイテイオーなどが代表格である。

年度別競走成績

  • 1848年(5戦5勝)
    • シャンペンステークス
  • 1849年(7戦7勝)
    • エプソムダービー
    • セントレジャー
  • 1850年(3戦2勝)
    • 大ロシア皇帝陛下プレート
    • 2着 - ドンカスターカップ
  • 1851年(1戦1勝)
    • ヴォルティジュールとのマッチレース

おもな産駒

血統表

ザフライングダッチマン血統(ウッドペッカー系(ヘロド系) / Selim3×4=18.75% (血統表の出典)

Bay Middleton
1833 鹿毛
父の父
Sultan
1816 鹿毛
Selim Buzzard
Alexander Mare
Bacchante Williamsons Ditto
Mercury Mare
父の母
Cobweb
1821 鹿毛
Phantom Walton
Julia
Filagree Soothsayer
Web

Barbelle
1836 鹿毛
Sandbeck
1818 鹿毛
Catton Golumpus
Lucy Gray
Orvillina Beningbrough
Evelina
母の母
Darioletta
1822 黒鹿毛
Amadis Don Quixote
Fanny
Selima Selim
Pot8o's Mare F-No.3-i


  • おもな兄弟 Van Tromp(セントレジャー、アスコットゴールドカップ、グッドウッドカップ)

外部リンク


フライング・ダッチマン

(ザフライングダッチマン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/04 19:44 UTC 版)

アルバート・ピンカム・ライダー画「フライング・ダッチマン」。
舞台となる海域。左下の赤点が喜望峰、左上の赤丸がケープタウン、その上の湾がテーブル湾。
喜望峰。
ケープタウンとテーブル湾。
同時代の帆船エンデバーレプリカ

フライング・ダッチマンFlying Dutchman)は、近代イギリス伝承に現れる幽霊船、もしくはその船長オランダ人である。船長はさまよえるオランダ人、船はさまよえるオランダ船フライング・ダッチマン号と訳すこともある。

伝承の要旨

アフリカ大陸南端近くの喜望峰近海で、オランダ人船長が(あるいは)を罵って呪われた。船は幽霊船となり、船長はたった1人で永遠に(あるいは最後の審判の日まで)さまよい続けることとなった。

起源

似た伝承として、北海を最後の審判の日までさまようドイツのフォルケンバーグ船長(Falkenburg)の伝説があった。

幽霊船の形で現れる最古の文献は、1795年ジョージ・バリントン英語版の『ボタニー湾への旅』(Voyage to Botany Bay)で、次のような話である[1]

  • オランダ人が喜望峰沖で遭難し、乗組員は全員死亡した。
  • 1隻の船が同行していたが、無事ケープ(現・南アフリカ共和国)に着き、一度ヨーロッパに帰って、またこの海域に戻ってきた。
  • 事故のときと同じ緯度に達したとき、遭難した船の幽霊船を見張りが見つけた。
  • 船がケープに着くと、船員はその話を触れ回り、幽霊船は「フライング・ダッチマン」と呼ばれるようになった。

1821年の雑誌『ブラックウッズ・マガジン』では、次のように書かれた[2]。ほぼ現在知られる物語になっている。

  • 幽霊船は、70年前(1751年)に出港したアムステルダム船である。
  • 船長はヘンドリック・ファン・デル・デッケン(Hendrik van der Decken)である。
  • ケープタウンへ向かってテーブル湾に入る直前で激しい向かい風となったため、船長は風を罵った。
  • その夜、船が船長に「今夜中に湾に入る気か?」とたずね、船長は「最後の審判の日までかかっても入ってやる」と答えた。
  • その結果、船は今も湾に入れず近海をさまよっている。悪天候のときのみ見ることができる。

ワグナーのオペラ

フライング・ダッチマンは、リヒャルト・ワーグナーオペラさまよえるオランダ人』(1842年)の題材として有名である。このタイトルは和訳されているだけで、原題 Der fliegende Holländer はフライング・ダッチマンのドイツ語訳である。

船長はたった1人で永遠にさまよう運命にあるが、7年に一度上陸でき、そのとき船長を愛す女性に出会えれば、呪いから解放される(死ぬことができる)。物語は、船が幽霊船となってかなりの年月が経過したのちのノルウェーで始まる。

出典

  1. ^ Barrington, George (2004 [1795]). Voyage to Botany Bay. Sydney: Sydney University Press. pp. 30. ISBN 1920897208 
  2. ^ Music with Ease (2008年). “Source of the Legend of The Flying Dutchman”. Music with Ease. 2008年2月23日閲覧。

関連項目





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