エドマンド・テューダー_(リッチモンド伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エドマンド・テューダー_(リッチモンド伯)の意味・解説 

エドマンド・テューダー (リッチモンド伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/14 07:38 UTC 版)

エドマンド・テューダー
Edmund Tudor
初代リッチモンド伯
在位 1452年 - 1456年

出生 1430年
イングランド王国ハートフォードシャー、マッチ・ハダム
またはベッドフォードシャー、ハダム
死去 1456年11月1日
ウェールズ、カーマーセン城
埋葬 ウェールズ聖デイヴィッド大聖堂
配偶者 マーガレット・ボーフォート
子女 ヘンリー7世
家名 テューダー家
父親 オウエン・テューダー
母親 キャサリン・オブ・ヴァロワ
テンプレートを表示

初代リッチモンド伯エドマンド・テューダー(Edmund Tudor, 1st Earl of Richmond, 1430年頃 - 1456年11月1日)は、イングランドの貴族。オウエン・テューダーキャサリン・オブ・ヴァロワフランスシャルル6世の娘でヘンリー5世の未亡人)の長男でベッドフォード公ジャスパー・テューダーの兄、ランカスター朝最後の国王であるヘンリー6世の異父弟、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父。

生涯

エドマンド・テューダーは、ハートフォードシャーのマッチ・ハダム(Much Hadham)もしくはベッドフォードシャーのハダム(Hadham)で、オウエン・テューダーとキャサリン・オブ・ヴァロワの息子として生まれた。彼の両親が密かに結婚して、合法的に生まれてきた子なのかどうかは分かっていない。事実はともかくとして、1437年に母が亡くなった後、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールの姉妹でバーキング女子修道院長キャサリン・ド・ラ・ポールに引き取られ養育、異父兄であるヘンリー6世からは1452年にリッチモンド伯に叙爵・認知された。弟ジャスパーもペンブルック伯に叙された[1][2]

1455年、エドマンドはマーガレット・ボーフォートサマセット公ジョン・ボーフォートの娘)と結婚した。彼女はその時12歳であって、翌1456年に妊娠した。しかしながら、薔薇戦争の始まりでエドマンドはヨーク派のウィリアム・ハーバート(またはウォルター・デヴルー)によって捕らわれ、南ウェールズのカーマーセン城に収監された。そしてそこで伝染病にかかって亡くなった[1][3]

エドマンドの唯一の子であるヘンリーが生まれたのは、その2ヵ月後のことである。

脚注

  1. ^ a b 森、P281。
  2. ^ 尾野、P32 - P33、ロイル、P160、P209、桜井、P193 - P195。
  3. ^ 尾野、P33 - P34、ロイル、P228、桜井、P195 - P198。

参考文献

爵位・家督
先代
新設
リッチモンド伯
1452年 - 1456年
次代
ヘンリー・テューダー



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エドマンド・テューダー_(リッチモンド伯)」の関連用語

エドマンド・テューダー_(リッチモンド伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エドマンド・テューダー_(リッチモンド伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエドマンド・テューダー (リッチモンド伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS