バッキンガム公の反乱
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第三次内乱 ボズワース ストーク・フィールド ロンドン ヨーク ペンブルックシャー カレー ブレコン ダブリン エクセター コーンウォール ストーニー・ストラットフォード ラドロー : – 会戦ボズワースの戦い(1485年8月22日)ストーク・フィールドの戦い(1487年6月16日) ボズワースの戦い(1485年) ランカスター派 リッチモンド伯ヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)ペンブルック伯ジャスパー・テューダー オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー ヨーク派 リチャード3世 ノーフォーク公ジョン・ハワード ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー スタンリー卿トマスウィリアム・スタンリー(英語版) –戦死または処刑。—ランカスター派に寝返り。 1471年にヘンリー6世とその王子のエドワード・オブ・ウェストミンスターが殺害され、その他の者も命を落としたことで、ランカスター家の王位継承者としてリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの存在が浮上していた。ヘンリー・テューダーの父リッチモンド伯エドマンド・テューダーはヘンリー6世の異父弟であるが、王位継承権自体は母マーガレット・ボーフォートからのものである。マーガレットはエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントの子ジョン・ボーフォートの孫である。ジョン・ボーフォートは出生時には私生児であり、後に両親が結婚して嫡出子となったが、ヘンリー4世の命によってジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は排除させられていた。このためにヘンリー・テューダーの血統の王位継承権には疑義があった。 ヘンリー・テューダーは少年時代の大部分を包囲下にあったハーレフ城と亡命先のブルターニュで過ごしている。1471年以降、エドワード4世はリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承権について軽視しており、幾度か身柄の確保を試みるだけだった。ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートは2度再婚しており、最初はバッキンガム公の甥、その次はエドワード4世治世での要人の一人であるトマス・スタンリーと再婚して息子に対する支持を固めていた。1483年、マーガレット・ボーフォートはエドワード4世の長女であり、弟たち亡きあとはヨーク家の相続人となったエリザベス・オブ・ヨークとヘンリー・テューダーとの婚約を成立させた。 リチャード3世に対する反抗は南部で起こった。1483年10月18日、バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(リチャード3世の即位に貢献し、自らも遠縁ながら王位継承権を有する)がランカスター系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの擁立を標榜して挙兵した。ヘンリー・テューダーよりはエドワード5世か王弟を擁立すべしという意見もあったが、バッキンガム公は両人は既に殺害されていると認識していた。 南部における彼の支持者の一部が蜂起したが、時期尚早な蜂起であり、リチャード3世の代官ノーフォーク公ジョン・ハワードによってバッキンガム公との合流を阻止されてしまう。バッキンガム公自身は中部ウェールズのブレコンで蜂起した。彼は南イングランドの叛徒との合流を図るが暴風雨によってセヴァーン川の渡河を妨げられ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸したが形勢不利とみて引き揚げている。バッキンガム公の兵は飢えに苦しんで逃亡し、彼は裏切りにあって捕らえられ、処刑された。 バッキンガム公の反乱の失敗はリチャード3世に対する陰謀の終わりにはならなかった。身辺でも不幸が重なり、1484年に王妃アンと11歳の王太子エドワードを相次いで亡くしていた。リチャード3世は兄の遺児エリザベス・オブ・ヨークとの再婚を考えるが断念している。
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