反乱の余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:47 UTC 版)
「グリンドゥールの反乱」の記事における「反乱の余波」の解説
1415年までにイギリスによるウェールズの完全な統治が復活した。主要な反乱勢力は死んだか、投獄されたか、あるいは莫大な罰金により衰退した。イギリス人・ウェールズ人を問わず、ウェールズの小教区・家庭とも何らかの影響を受けないものはなかった。人の命、物理的な破壊、そして台無しになった人生等、損失は莫大だった。ウェールズはイングランドとの境界にあり既に貧しい国となっていたが、略奪や経済封鎖、あるいは公共的罰金によりさらに貧困化した。多くの著名な一族が没落した。 一連の刑法典は新たな反乱を防ぐためのものとして位置づけられた。これらは薔薇戦争が終わるヘンリー7世の治世までそのままだった:19。ヘンリー7世はヘンリー・テューダー (Henry Tudor) としても知られ、ペンマニズのテューダー家 (Tudors of Penmynydd) (英語版) の子孫で、ウェールズ人の血を引いていた。それまで、ウェールズ人は不動産などの資産を持つことを禁止され、陪審員になることもできず、イギリス人と結婚することも認められず、王室内の何らかの役職に就くこともできなかった。また、司法実務の問題として、裁判所でのウェールズ人のイギリス人に関する証言は採用されなかった。とはいえ、例えばヘンリー6世 (1421年-1471年) の異父弟である第2代リッチモンド伯エドマンド・テューダー (1430年頃-1456年) や初代ベッドフォード公ジャスパー・テューダー (1431年頃-1495年) のように、ウェールズ人がイギリス人として法的地位を付与されるケースもいくらかは散見された。しかしながらテューダー兄弟の父親オウエン・テューダー (1400年頃-1461年) はヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロワ (1401年-1437年) と秘密裏に結婚していたとして逮捕された:29:32。その後ヘンリー7世により、ようやくウェールズ人の法的地位は改善された。
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