反乱の勃発と退位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:08 UTC 版)
「ナスル (ナスル朝)」の記事における「反乱の勃発と退位」の解説
ナスルとワズィールのイブン・アル=ハッジ(アティーク・ブン・アル=マウルが北アフリカへ逃亡したために後任となった人物)は、三つの戦線における戦争を最小限の被害で終わらせることに成功したにもかかわらず、その後すぐに宮廷内での評判を落とした。歴史家のレオナード・パトリック・ハーヴェイ(英語版)は、その原因についてははっきりとしていないと述べている。当時と近い時代に生きた学者であるイブン・ハルドゥーンは、両者の「暴力と不正への傾倒」が原因であったと記しているが、ハーヴェイはこの説明を敵意に基づいたプロパガンダであるとして否定している。一方でアラビア学者のアントニオ・フェルナンデス・プエルタスは、不人気の理由を、貴族たちから度を越しているとみなされたナスルの科学への探求や、スルターンとワズィールの親キリスト教徒的な姿勢に疑いの目が向けられていたことと結びつけている。ナスルはアストロラーベや天文表(ズィージュ(英語版))の製作にあまりにも時間をかけ過ぎていたために君主としての職務を怠っていたといわれている。また、親キリスト教徒的な姿勢を疑われていたのは、キリスト教徒の母親から教育を受けていたことや、フェルナンド4世との関係が良好であったことに起因している。さらに、イブン・アル=ハッジはスルターンに対してあまりにも強い影響力を持っていると考えられていたために人気がなく、両者ともしばしばカスティーリャ風の衣装を着ていたことでより印象を悪くしていた。 1310年11月にナスルは重病に倒れ、宮廷内の一派がムハンマド3世を再び擁立しようとした。老齢で盲目に近い状態であったかつてのスルターンはアルムニェーカルから輿で運ばれた。しかしムハンマド3世が復位する前にナスルの病状が回復したため、この計画は失敗に終わり、ナスルは兄をアルハンブラ宮殿のダール・アル=クブラ(「大きな家」の意)に幽閉した。その後ナスルは兄を溺死させたが、その時期については複数の一致しない記録が残されている。14世紀のナスル朝の歴史家であるイブン・アル=ハティーブは、1311年2月中旬、1312年2月もしくは3月、1312年2月12日、および1314年1月21日の四つの日付を挙げているが、歴史家のフランシスコ・ビダル・カストロは、四つのすべての日付を検討し、他の信頼性の高い記録やムハンマド3世の墓碑にも記述が見られることから、最も遅い1314年1月21日が可能性の高い日付であると結論づけている。 失敗に終わったクーデターの計画に続いて反乱の指導者となったのは、マラガの総督でナスル朝の王族の一人であるアブー・サイード・ファラジュ(英語版)だった。アブー・サイードはナスルの祖父でナスル朝の建国者であるムハンマド1世(在位:1232年 - 1273年)の甥であり、ナスルの姉のファーティマと結婚していたため、ナスルにとっては義理の兄でもあった。アブー・サイードは例年のナスルへの表敬に訪れた際に宮廷におけるスルターンの評判の悪さに気づいた。また、ナスルについて耳にしたことに対して嫌悪感を抱いた。アントニオ・フェルナンデス・プエルタスによれば、アブー・サイードはムハンマド3世の死にさらなる強い憤りを見せた。 アブー・サイードは1311年にマラガで反乱を起こした。しかし自分がスルターンであるとは宣言せず、妻のファーティマを通じてムハンマド2世の孫であるという正統性を有していた息子のイスマーイール(後のイスマーイール1世、在位:1314年 - 1325年)をスルターンとして宣言した。マラガの反乱者は都市に駐留していたアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(英語版)の司令官であるウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーに率いられた北アフリカ出身者からなる軍隊の支援を受けた。一方のナスルは、北アフリカから追放された王子であるアブドゥルハック・ブン・ウスマーンとハンムー・ブン・アブドゥルハック(英語版)に率いられた別の北アフリカの軍隊による支援を受けた。 反乱軍はアンテケーラ、マルベーリャ、ベレス=マラガを奪い、ベガ・デ・グラナダ(英語版)へ進軍した。そしてアラビア語の史料においてアル=アトシャ(恐らく今日のラチャル(英語版)と考えられている)と呼ばれる場所でナスルの軍隊を打ち破った。この戦いでナスルは落馬して馬を失い、徒歩でグラナダへ逃げ帰らなければならなかった。その後、アブー・サイードはグラナダへの包囲を開始したが、長引く軍事行動を支えるだけの物資が不足していた。ナスルはフェルナンド4世に支援を求め、1312年5月28日にペドロ・デ・カスティーリャに率いられたカスティーリャ軍がアブー・サイードとイスマーイールを破った。アブー・サイードは講和を求め、自身がマラガの総督の地位を維持し、スルターンへの納税を再開する条件の下で8月5日に和平が成立した。カスティーリャでは1312年8月にフェルナンド4世が死去し、1歳の息子のアルフォンソ11世(在位:1312年 - 1350年)が後継者となった。ナスルはカスティーリャの王位継承が起きる直前にカスティーリャに対する例年の貢納金を支払った。 スルターンのナスルへの反発はその後も続き、反ナスル派の人々はグラナダの宮廷からマラガへ逃れた。そして程なくしてイスマーイールは母親のファーティマとウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーの助けを借りて反乱を再開した。イスマーイールがグラナダへ進軍を続けるにつれて軍隊の規模は膨れ上がり、首都の住民はイスマーイールのために城門を開いた。イスマーイールはエルビラ門(英語版)(イルビラ門)からグラナダに入り、ナスルが留まっていたアルハンブラ宮殿を包囲した。ナスルはアルフォンソ11世の即位後にカスティーリャの摂政の一人となっていたペドロ・デ・カスティーリャに助けを求めようとしたが、カスティーリャの救援は間に合わなかった。ナスルは1314年2月8日(ヒジュラ暦713年シャウワール月21日)に退位を余儀なくされた。そしてアルハンブラ宮殿を明け渡す代わりにグアディクスへ去り、総督としてグアディクスを統治することが認められた。アブドゥルハック・ブン・ウスマーンとハンムー・ブン・アブドゥルハックの両者もナスルに付き従ってグアディクスへ向かった。
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