反乱の始まりと1789年の革命
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「トゥアール」の記事における「反乱の始まりと1789年の革命」の解説
18世紀のトゥアールは連続して発生した自然災害で知られるようになる。1708年、ひどい旱魃が寒い冬、不作、飢餓と疫病の原因となった。サン・メダール教区では180人の死者が出た。そして、地震と2か月続いた雷雨、嵐が都市を打ちのめした。1711年12月10日、ゴシック様式のサン・ラン教会の尖塔部分が、大ミサの時間帯に崩落した。建物は1世紀以上そのままにされた。 この時代、ラ・トレモイユ家の歴代公爵たちはトゥアールの町への関心を失っていた。フランス王宮廷の素晴らしさが彼らをヴェルサイユ宮殿に留め置いたのである。彼らはごくまれにしかトゥアールへ戻らず、収穫期の徴税の時にだけトゥアール住民の運命を気にしていた。 町では、恨みが大きくなり、怒りが醸成されていった。1789年の革命思想は地域全体の琴線に触れた。バスティーユ襲撃後、トゥアール住民たちはサン・メダール教会の正面に自由の木(fr)を植えた。大多数の意見の一致は住民の間で高く、聖職者たちの一部ですら共和国の思想を受け入れた。しかし事件が立て続けに起きた。1791年、ジャコバン派修道院が国有財産化されたうえ売却され、火薬倉庫になった。修道院は結局一部が壊された。尖塔を失っていたサン・ラン教会は、教会内での礼拝を禁止され、愛国者の建造物が内陣に建立された。建物はまた、宴会場や結婚式会場としても使われた。城のふもとのポン・ヌフはポン・シュアン(シュアン橋)と改名させられた。ヴァンデの王党派軍が1793年5月のトゥアールの戦いに勝利してトゥアールに堂々と入場する際、この橋を通過したからである。トゥアールはヴァンデ戦争中にヴァンデ軍にあっさりと占領されたが、1793年9月からの攻撃で撃退され、共和国の思想は最終的に勝利した。 1814年、ルイ18世のブルボン復古王政は巨大な不満を集めた。秘密結社が共和国の復活を模索した。こうした秘密結社のうちの1つが、攻撃の開始場所にトゥアールを選んだ。1822年2月24日、ベルトン将軍に指揮された『自由の騎士たち』(les Chevaliers de la Liberté)が憲兵隊を急襲した。ベルトンはトゥアール住民を説得しようとしたが、反乱は失敗した。1822年6月17日に彼は逮捕され、判決を受けてポワチエでギロチン刑にされた。彼の共犯者ジャグランとソーヴェの2名は、1822年10月7日、サン・メダール広場でギロチン刑にされた。
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