反乱の広がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:47 UTC 版)
「グリンドゥールの反乱」の記事における「反乱の広がり」の解説
1403年は反乱が真にウェールズ人全体的なものになった年として記録される。オワインは西部や南部でも攻撃を行った。西部でスウェリン大公 (1172年-1240年) 遠征軍を再結成し、トオウィ渓谷 (Tywi Valley) (英語版) に沿って進軍した。住民たちは次々とオワイン軍に合流し、イギリス人の荘園や城は陥落したか、あるいは住民たちが降伏した。ついにはイギリスの西部ウェールズにおける主要な戦略拠点の一つであるカーマーゼンは陥落し、オワイン軍に占拠された。その後オワインは引き返してグラモーガン (Glamorgan) (英語版) とグウェント (Gwent) (英語版) を攻撃した。アバガヴェニー城 (Abergavenny Castle) (英語版) にも攻撃を加え、城下町を燃やした。オワイン軍はウスク (Usk) (英語版) の街を燃やし、カーディフ城 (Cardiff Castle) (英語版) やニューポート城 (Newport Castle) (英語版) を陥落させながら、ウスク川 (River Usk) (英語版) の渓谷を海に向かって突き進んだ。イギリス王室の公式発表によると、オックスフォード大学のウェールズ人学生たちはオワインのために学業から離れ、ウェールズ人の労働者や職人たちはイングランドでの雇用主を見捨てて、大挙してウェールズへ帰っていた。北部ウェールズではオワインの支持者たちが (このときはフランス軍の支援を受けて) カーナーヴォン城に更なる攻撃を加え、そのほとんどを攻略した:183。これに対抗してモンマスのヘンリー (ヘンリー4世の息子で後のヘンリー5世) はグリンダブルデュウィ (Glyndyfrdwy) (英語版) とサハース (Sycharth) (英語版) にあるオワインの居宅を攻撃し燃やした。 1403年7月10日ホットスパーは、リチャード2世の支持者たちの本拠地であるチェシャー州チェスターでヘンリー王に反旗を翻した。原因はヘンリー家が王室から冷遇されていたことや、ホットスパーの義弟であるモーティマーが捕獲されたときに、ヘンリー王が身代金の支払いを拒絶したことなどが考えられる。そのときわずか16歳だったモンマスのヘンリー (ヘンリー王子) は、ホットスパーに対応するために北へ引き返した。7月21日、ヘンリーは反乱軍を街の外に留まらせるように威圧しながら、ホットスパーより早くシュルーズベリーに到着した。ヘンリーはノーサンバランド伯 がシュルーズベリーに着く前に、戦いを仕掛けた。その結果7月22日ヘンリーは反乱軍の兵力が全て揃う前に、自分で選んだ場所で戦うことができた。戦いは終日続き、ヘンリー王子は矢で顔にひどい損傷を負ったが、他の兵士たちと共に戦い続けた。ホットスパーが倒れたと叫び声が上がったとき、反乱軍の抵抗はつまづき、崩れ始めた。その日の終わりまでに、ホットスパーは死に、彼の反乱は終わった。300人を超える騎士が亡くなり、最大2万人の兵士が死傷を負った。 1404年の夏には、オワインはハーレフとアベリストウィス (Aberystwyth) (英語版) にある西部の重要な城を占拠し兵を駐屯させた。統治者としての真剣さを示すために、オワインはハーレフに行政府を置き、器用で賢明なグリフィズ・ヤング (Gruffydd Young、1370年-1435年) (英語版) を宰相として任用した。その後すぐにオワインはウスクのアダム から、彼がマハアンスレス (Machynlleth) (英語版) で行ったプリンス・オブ・ウェールズの戴冠式を、全ウェールズ人の最初の議会 (あるいはより正確には会合 (ウェールズ語:Cynulliad )、「集会」)と呼ぶべきであったと言われた。グリフィズ・ヤングはウェールズの聖職者で、セント・デイビッズ、バンガーなどの教区で様々な役職を歴任したのち、セント・デイビッズの司教総代理を務め、さらにメイリオニズ (Meirionnydd) (英語版) の助祭長 (Archdeacon) となっていたので、上級聖職者やウェールズ人社会での重要人物たちの支持を受けた。イギリス側の抵抗は、いくつかの孤立した城や城壁で囲まれた町、それと武装したマナー・ハウスだけに縮小した。
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