ダービーとリチャーズとダーリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:18 UTC 版)
「ピンザ」の記事における「ダービーとリチャーズとダーリン」の解説
ピンザは、本命馬の一頭であっただけでなく、ナイトに叙されたばかりのゴードン・リチャーズにダービーの勝利をもたらしたことでも祝福されたダービー馬となった。 リチャーズは、それまでダービーで1934年イーストン Easton (FR) 2着、1936年タージアクバル Taj Akbar (GB) 2着、1938年本命パスクで3着、1939年フォックスカブ Fox Cub (FR) 2着、1943年ナスルーラ Nasrullah (GB) 3着のほか、1942年に無敗の本命ビッグゲーム(英語版) Big Game (GB) 6着、1947年にも同じくテューダーミンストレル Tudor Minstrel (GB) で4着など、27回挑んで一度も勝てずにいた。一方ダーリン調教師は、リチャーズと優先騎乗契約を結んだ1932年以降も3回ダービー制覇をつけ加えていた。その際のリチャーズは、1938年が9対4(3.25倍)の本命となったピンザの叔父パスクで20対1(21倍)の人気薄ボワルセル Bois Roussel (FR) に3着。ニューマーケットで代替開催された1940年のポンレヴェック(英語版) Pont l'Evêque (GB) は調教師自身の持ち馬でもあったため厩舎の主戦騎手としてタンミュー Tant Mieux (FR) への騎乗を優先して4着。1941年のオーエンテューダー Owen Tudor (GB) では5月に馬に蹴られ脚を負傷して騎乗を逃すといった具合だった。リチャーズはこのシーズン終わりに騎手を引退し、1953年のダービーが最後となることをすでに表明していた。 そのころ病で長く臥せっていたダーリンは、ピンザとリチャーズの勝利の報を聞くことができた。ダーリンはダービーの3日後に死去した。
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