ダービー制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:18 UTC 版)
ネヴァーセイダイは冬の間に馬体が成長したが、年明け2戦では成果にはつながらなかった。エイントリー競馬場のユニオンジャックステークスで2着したあと、4月のニューマーケット競馬場でフリーハンデキャップに出走して着外に終わった。エプソムダービーに向けての最後のステップレースで、ネヴァーセイダイはニューマーケットに戻り、10ハロンのニューマーケットステークスに出ることになった。マニー・マーサー騎手の騎乗によって、前半は果敢に先頭を切ったが、途中でかわされ、イロープメント(Elopement)とゴールデンゴッド(Golden God)に次ぐ3着でゴールした。 陣営はこの後、ネヴァーセイダイの体調が急激に向上したと判断し、ダービーステークスへの出走を決定。 エプソムダービー当日は寒く凍えるような日になった。22頭の出走馬がいたが、ネヴァーセイダイは34倍の人気薄だった。 幾人かの証言によれば、「ネヴァーセイダイ」という印象的な馬名と、騎乗する18歳の若手騎手レスター・ピゴットの個人的な人気がなければ、ネヴァーセイダイの馬券はもっと人気が無かっただろうと言われている。 ネヴァーセイダイは道中の位置取りもよく、ピゴット騎手の指示で直線で早めに先頭に抜けだすと、アラビアンナイト(Arabian Night)に2馬身の差をつけて優勝した。3着にはとダライアス(Darius)が入った。生産者・馬主のクラークはこのときニューヨークで入院中のためレースを観戦することはできなかった。 アメリカ産のサラブレッドがイギリスダービーを勝つのは、1881年のイロコイ(Iroquois)以来だったが、それはアメリカ産馬の挑戦をイギリスが約80年に渡って跳ね返してきたからではなく、アメリカ産馬によって蹂躙されるのを恐れたイギリス競馬界が、20世紀はじめにジャージー規則を作ってアメリカ血統の出走を防いできたからである。このジャージー規則が廃止されたのは1949年のことで、それから数年の間に、もしジャージー規則が撤廃されていなければ出走すら難しかった馬が2頭(そのうち1頭はネヴァーセイダイ)ダービーを勝っている。 34倍の人気薄馬の勝利としては、1908年のシニョリネッタ、1913年のアボイユールの101倍に次ぐ史上3番目の高配当での勝利であった。また、この時ネヴァーセイダイに騎乗していたレスター・ピゴットは、(明確な記録があるものとしては)史上最年少でのダービーステークス優勝を達成した。
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