ダービーステークス
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/25 08:18 UTC 版)
ダービーステークス(Derby Stakes)は、イギリスのエプソム競馬場(芝、1マイル4ハロン6ヤード、約2420メートル)で行われる競馬の競走である。
注釈
- ^ 現在、バンベリー準男爵の名を冠したバンベリーカップenと言う競走もあり、ニューマーケット競馬場で行われている。
- ^ 4頭がもつれあってゴール、決勝審判は1番人気のクラガノール(Craganour)が1着、アタマ差の2着に単勝101倍の大穴アボイヤール(Aboyeur)、クビ差の3着に2000ギニー優勝馬のルーヴォイス(Louvois)と判定した。一度は確定(all right)を知らせる旗があがったが、主席裁決委員が異議を申し出て審議が行われた。審議の結果、ゴール直前にクラガノールがアボイヤールの妨害を行ったとして、判定が覆ってクラガノールは失格、アボイヤールが優勝と裁定された。一度確定サインが出たので、既にクラガノール優勝の馬券の払い戻しを始めていたブックメーカーもいた。これ以降、イギリスの競馬界は「確定」の用語を使わなくなった。なおこの主席裁決委員はクラガノールの生産者であった。当時の観客は、裁定とは逆に、ゴール前の混戦ではアボイヤールが加害馬でクラガノールが被害馬であると考えていたという。この年の2000ギニーでは、クラガノールとルーヴォイスが内外大きく離れてゴールに入り、決勝審判によってルーヴォイス1着と判定された。しかし実際には反対側にいたクラガノールのほうが1馬身前にいたのではないかとの疑いがある(当時はまだ写真判定導入前だった)。クラガノールの馬主は、前年に沈没して1500名あまりの死者を出したタイタニック号の社主の一族で、同社のブルース・イズメイ会長はタイタニック号に乗り合わせていたが自分は助かっていた。クラガノールの馬主はその実弟バウアー・イズメイであり、当時この一族はイギリス中から白眼視されていた。2000ギニーとダービーの主席裁決委員は同一人物であり、馬主であるバウアーはこの主席裁決委員の義理の妹と不倫をしており、主席裁決委員も個人的にバウアーを嫌悪していたという。また、この時の裁決委員は、規定上の定数3名に足りず、2名しかいなかったことがわかっている[5][6][7]。
- ^ エミリー・デイヴィソンは、オックスフォード大学を卒業したあと、婦人参政権の活動家となって示威行為を繰り返し、7年間に9回投獄されている。罪状のなかには、ロンドンの路上の電信柱への放火、議会への侵入などがある。監獄ではハンガーストライキを行って3回出獄している[5][6]。
- ^ エミリー・デイヴィソンが加害した馬が国王の所有馬であったために、当時、彼女は王室を狙って注目を集めようとしたのだろうとみなされた。しかし、もとから彼女と行動をともにしていた一部の活動家を除いて、当時の世間の多くはその行為を賞賛しなかった。エミリーは実際には先頭を走っていたアボイヤールに近づこうとしたがうまくいかず、最後尾から3頭目を進んできたアンマーに接触している。今では、彼女には馬の見分けはつかず、衝突した馬がたまたま王室の馬だったのだろうと考えられている。また、彼女は帰りの切符などを所持していたことから、自身の命を賭すつもりはなく、意図せず誤って馬に衝突したものと今では考えられている[5]。ただし彼女は遺書などを携えていなかったので、真意がどうであったかはわかっていない[6][5]。
- ^ アクトン氏(Mr.Acton)とは、当時のロスチャイルド家当主のライオネル・ド・ロスチャイルドが使っていた仮定名称である[15]。ただし、実際にはその息子のレオポルド・ド・ロスチャイルドが実務を担っていたと広く考えられている[15]。レオポルドは1904年にSt. Amantで自分自身の名義でダービーを勝った[15]。なお、ライオネルはこの競走の6日後の1879年6月3日に死去している。
出典
- ^ IFHA Investec Derby 2014年12月4日閲覧。
- ^ 【世界史の遺風】(8)ダービー卿-馬で名を残した英国貴族(MSN産経ニュース 2012年5月24日)
- ^ 原田俊治『世界の名馬』(サラブレッド血統センター)、209頁。
- ^ 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p27-35「ランニングレイン事件」
- ^ a b c d e f 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p83-88「もっとも不運な牡駒」
- ^ a b c d 『The Derby : A celebration of the world's most famous horse race』p146-151「Tragedy at Tattenham Corner」
- ^ a b 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p2「Aboyeur」
- ^ 『英国競馬事典』p55「エプソム競馬場」
- ^ CHANGES TO FLAT RACE DISTANCE MEASUREMENTS - British Horseracing Authority、2017年6月25日閲覧
- ^ a b c d “英ダービー、新スポンサーが決定”. JRA-VAN ver.World. 2021年4月2日閲覧。
- ^ “オーギュストロダン制覇の英ダービーに乱入者、逮捕者31人に | JRA-VAN World - 海外競馬情報サイト”. JRA-VAN Ver.World - 海外競馬. 2023年7月3日閲覧。
- ^ “英国ダービー、インベステック社との長期契約で最高額レースに返り咲く(イギリス)[開催・運営] - 海外競馬ニュース - 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル (JAIRS)”. jairs-cs2.coresoft-net.co.jp. 2021年4月2日閲覧。
- ^ “ダービーと英オークス、ブックメーカーのベットフレッドが新スポンサーに” 2023年6月7日閲覧。
- ^ ニューヨーク・タイムズ氏 1879年5月29日付 2013年11月29日閲覧
- ^ a b c 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p67-69「ロスチャイルド家の幸運」
- 1 ダービーステークスとは
- 2 ダービーステークスの概要
- 3 概要
- 4 歴史
- 5 各国の「ダービー」
- 6 外部リンク
エプソムダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:06 UTC 版)
6月5日、ダービー当日は「冷たく湿って風の強い、陰鬱な」と形容されたほどの悪天候に見舞われた。9頭立てで行われたなか、当日の1番人気には2000ギニーを制してきたスリーヴギャリオン(英語版)が単勝約1.6倍に据えられていた。この日は国王エドワード7世と皇太子も臨席しており、観客もいつも以上に身だしなみが整った「シルクハット・ダービー」と呼ばれた。スタートが切られると先に行ったのはジョンブルという馬で、それを追いかけるのがスリーヴギャリオン、そしてオービーは6-7番手につけて道中を進めていった。オービーの鞍上を務めたジョン・レイフはレースの半分が過ぎたところで動き出し、スリーヴギャリオンが最後の直線に入るところでオービーが先頭を奪取、そのまま突き抜けて2着ウールウィンダー(英語版)を2馬身離して優勝した。敗れたスリーヴギャリオンの調教師サム・ダーリングは「より良い馬に負けた」とオービーを称賛したという。馬主のクローカーはこの競走で4万ポンドを賭けており、また優勝賞金を全額チャリティーに回したという。 ダービー勝利後の少しあと、クローカーはスリーヴギャリオンの馬主と協議して数回にわたるマッチレースを企画したが、これは結局破談となった。その後オービーはカラ競馬場に戻り、エプソムダービー勝ち馬として初めてアイリッシュダービーに出走、これに勝利した。
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エプソム・ダービー
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「エミリー・デイヴィソン」の記事における「エプソム・ダービー」の解説
1913年6月4日、デイヴィソンはエプソムダービーに出席した。レースが行われ、デイヴィソンがいる場所のトラックのストレッチを馬が走り過ぎると、デイヴィソンは手すりをくぐってトラック内に侵入した。さらに他の数頭の馬が通り過ぎてからデイヴィソンはジョージ5世が所有する馬アンマーの走路で両手をあげて立ちはだかった。王の馬は猛スピードでデイヴィソンに衝突した。デイヴィソンは激しく空中に投げ出され、意識不明で地面に打ち付けられた。騎手のハーバート・ジョーンズはアンマーがつまづいた時に投げ出された。 見ていた人々はトラックに急ぎ、救急車が来るまでデイヴィソンとジョーンズに手当を施そうとした。2人とも病院に搬送された。 騎手のハーバート・ジョーンズは脳震盪その他のけがを負ったが、回復して2週間後にはアスコット競馬場でアンマーに再騎乗してレースに出ることができた。デイヴィソンはダービーの4日後に、事故による頭蓋骨骨折と内傷のため、エプソム・コテージ病院で亡くなった。 デイヴィソンがダービーに出席した目的はあまりよくわかっていない。サフラジェットの色である紫、緑、白に彩色された大きな2枚の旗、ロンドンに帰る往復用の鉄道チケット、その日後で行われるはずだったサフラジェットのダンスの会のチケット、翌週の予定が書かれた日記を持った状態で発見されており、チケットは今でも2枚ともロンドンの女性図書館のコレクションで保管されている。このことは本人が殉教者になるつもりはなかったことを示唆している。のちの研究では、ダービーのため、その日は往復チケットしか買えなかったことが指摘された。 デイヴィソンがアンマーにメッセージかスローガンが書かれたものをつけようとしてコースに入ったという可能性もある。そうすれば馬がゴールに入る時にWSPUの旗が翻るのを見せることができるからだ。トットナム・コーナーからパテ・ニュースによって撮られた映像では、デイヴィソンがトップの馬が走りすぎるその時にコースに踏み込んでいることが見てとれる。その後、デイヴィソンは内側をさらに2頭の馬が走りすぎる間コースの真ん中に立っており、最後に一緒に走り込んできた数頭の馬のうちの1頭であるアンマーにより、最終的に地面にたたきつけられた。映像ははっきりしていないが、この時までにデイヴィソンが馬につけるつもりでWSPUのバナーを隠していた服の下から取り出していたという可能性はある。この時の目撃者たちはデイヴィソンの動機について意見を異にしていた。馬が全頭行き過ぎたと考えてトラックを単に横切ろうとしただけだと思った者もいれば、王の馬に手をかけようとしていたと述べる者もいた。歴史研究家の中には、レース前にデイヴィソンとその他のサフラジェット数名が母親宅の近所の公園で馬をつかまえて止める練習を行い、だれがエプソムに行くかをくじ引きで決めていたと指摘する者もいる。 デイヴィソンの死についてはさまざまな仮説があり、この中には故意に馬の下に「身投げ」したというものや、アンマーにサフラジェットのバナーをとめようとしていたというものもある。しかしながらどの説にも確かな証拠はない。 2013年のチャンネル4の番組でクレア・ボールディングは、デイヴィソンは自らの大義を広報するため王の馬の首にVotes for Womenのサッシュを投げようとしていたと示唆した。衝突直後に現場で見つかったとされるサッシュはジョッキークラブとの競り合いののちに作家のバーバラ・ゴーナがオークションで落札しており、今ではイギリス国会議事堂にかかっている。この仮説は、3種類の異なるニューズリールカメラで撮影された映像を番組のために法科学の専門家が精査・関連づけした調査の結果によって裏付けられた。デイヴィソンは以前に考えられていたよりもずっとコーナーの開始地点近くにおり、接近する馬がはるかによく見える可能性がある場所にいたとわかった。 競馬史の専門家で、1913年のダービーとデイヴィソンの事件について考察した2013年刊行の歴史書The Suffragette Derbyの著者であるマイケル・タナーは、デイヴィソンの行動は考えられているよりずっと意味のないものだと主張した。デイヴィソンのいたトラック内の位置と、当時はレース実況がなかったことからして、デイヴィソンは自分が衝突したのが王の馬だとはわからなかったというのである。タナーはチャンネル4で提示された仮説にも、調査の末に疑義を呈している。
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