1840年から1854年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 22:30 UTC 版)
「フレデリカ・ブレーメル」の記事における「1840年から1854年」の解説
1830年代、ブレーメルはスウェーデンの代表的な小説家としての地位を築き、1840年頃にはドイツ語と英語への翻訳によって国際的にも有名となった。彼女は莫大な収入を得ていたが、他の女性と同じく成年者として認められていなかった。そこでブレーメルは成年者と認められるために王に申し出ることを決意した。1840年12月14日に彼女の申し出は閣議とカール14世ヨハンによって受諾され、遂に彼女は成年者として認められた。 1842年、彼女は初めて純文学以外の作品で、現在の議論における宗教的メッセージ性の強い文書『朝のひととき(Morgon-väckter)』を執筆した。ストックホルムでは慈善活動を続け、上位中流階級で聡明な者たちと交流することで孤立感をなくしていた。 アレクシ・ド・トクヴィルのアメリカの記述を読了し、ブレーメルは1849年にアメリカに渡って1851年11月まで滞在し、更に西インド諸島やキューバを訪れた。彼女の経験は日記の覚書や姉妹のアガセ(Agathe)への手紙に記されており、ルポタージュ『新世界の家(Hemmen i den nya världen)』(1853 - 54)が執筆された。アメリカでは慈善活動団体についての知識をより深め、1854年にタイムズで印刷された構想文書を介し、イングランドで世界平和のプロジェクトを始めようとした。当時、彼女は自身のイデオロギーを「キリスト教社会主義」と呼び、競争原理の考えはキリスト教における説教と相反するとした 。しかしながら、彼女はキリスト教の社会自由主義だと解釈されることが多い 。 1851年にアメリカではブレーメルにちなんで、アイオワ州のブレマー郡と名付けられた。名前は彼女を称賛した州知事ステフェン・ヘンプステッド(Stephen Hempstead)が提案したものである。
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