1840・50年代:農本主義と領土拡大
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「1840・50年代:農本主義と領土拡大」の解説
1836年の大統領選挙ではジャクソンの副大統領だったマーティン・ヴァン・ビューレンが民主党の候補として指名され、勝利した。しかし、1837年恐慌の影響を受け、1840年の大統領選挙ではホイッグ党のウィリアム・ヘンリー・ハリソンとジョン・タイラー正副大統領候補に敗れた。1844年の大統領選挙では、ジェームズ・K・ポークを擁立した民主党が再び勝利した。 1840年代、政治の焦点は領土拡大であった。民主党員のほとんどは、「マニフェスト・デスティニー」を標語に領土拡大を強く主張し、メキシコ(テキサス併合をめぐって対立)やイギリス(オレゴン・カントリーをめぐって対立)との戦争のリスクを冒してでも、西部へ積極的に拡張すべきと主張した。アメリカ史家ダニエル・ウォーカー・ハウ(英語版)の言葉を借りれば、「それでもなお、アメリカ帝国主義はアメリカ人の総意ではなく、国内政界には鋭く異議を唱える者もいた」。すなわち、民主党員の大半がマニフェスト・デスティニーを強く支持したのに対し、ホイッグ党員の大半は強く反対したのである。 1846年、ポークの指揮下、米墨戦争が勃発した。上院議員エイブラハム・リンカーン等、ホイッグ党員の大半はこの戦争に強く反対したが、結果として、アメリカは現在の南西部の大部分を獲得することになった。 アメリカ史家ジョン・マック・ファラガー(英語版)は、この時代の両党間の政治的対立について、次のように分析している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ほとんどの民主党員は領土拡張を心から支持したのに対し、多くのホイッグ党員(特に北部)は反対していた。ホイッグ党は産業化のもたらす変化のほとんどを歓迎してはいたが、彼らが主張していたのは、国家の強力な主導による、既存の国境内での成長と開発であった。常に論争の的であった奴隷制度の継続問題が、新規獲得領土に広がることを(正しくも)恐れていたのである。他方で、多くの民主党員はホイッグ党が歓迎する産業化そのものを恐れていた……多くの民主党員にとって、国家の社会病理を治す方法は、新しい領土を開拓して農業を展開し、産業化との均衡を図る、というトーマス・ジェファーソンの思想に従うことだった。 その他、ポークは関税を引き下げ、支金庫(英語版)制度を導入した。また民主党は移民を拒絶するネイティビズムに反対した。しかし、奴隷制度をめぐっては、民主党、ホイッグ党ともに、党内で意見が分かれていた。 1848年の大統領選挙において、民主党は党大会にて全国委員会を創設し、ルイス・カスを大統領候補に指名したが、ホイッグ党のザカリー・テイラーに敗れた。敗北の主な原因は、ニューヨーク州を中心に、奴隷制度の拡大に反対する党員が離党して自由土地党を結党し、テイラーに投票したためだった。議会においては、新規領土と奴隷制を巡って激しい論争が繰り広げられた後、テイラーの急死も一因となって、1850年協定が成立した。 この後、民主党は各州でホイッグ党に小さくても確かな差を着実につけていったのに対し、ホイッグ党は奴隷制とネイティビズムを巡る分裂により弱体化し、ついに1852年、崩壊した。反対勢力が分散したことが助けとなり、民主党は1852年(フランクリン・ピアース)と1856年(ジェームズ・ブキャナン)の大統領選挙において、連続して勝利を収めた。
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