1840年代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 08:11 UTC 版)
ボヘミア生まれのイグナツ・パルメ (de:Ignaz Pallme) による1843年の著書によると、1779年、現在のスーダン東部にあったセンナール王国 (Kingdom of Sennar) がシェイク・ナシブ(Sheikh Nacib)に騎兵隊2000を預けてこの地の征服に乗り出し、その後にセンナールおよびドンゴラ (old Dongola) から多くの人が移り住んだ。 ほぼ同時期、現在のスーダン西部にあったダルフールスルタン国(Sultanate of Darfur)もコルドファンの統治を試み、センナール人を追い出して、1821年までこの地を支配した。ダルフールの支配時期には平和であり、商人に課せられた税もダルフールのスルタンに対する献金の形であり、負担が少なかった。ドンゴラ人はこの地方第2の商業都市バラ (Bara) を建てた。商取引は四方に及び、キャラバンはアビシニア(エチオピア帝国)やエジプトの商品をロベイド(Lobeid)やバラといった都市に運び込み、他のアフリカの諸都市に輸出を行っていた。 1821年、オスマン帝国のエジプト総督ムハンマド・アリーが、息子のイブラーヒーム・パシャと娘婿の「大蔵卿」ムハンマド・フスラウ・アッ=ダラマリーに4500名の兵士と大砲8門を預けて攻略させ、征服した。ムハンマド・アリーは他の商人の行動を大幅に制限し、コルドファンの富を独占した。
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