新しい経済の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 18:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「新しい経済の発展」の解説
1840年代までにアメリカ合衆国の経済は大きな変化を経験していた。アレクサンダー・ハミルトンのビジョンに従い、工業強国への道を歩んでいた。それ以前の時代は動きが遅く小さく鏤められた田園社会だったがこれが消えて行き、トーマス・ジェファーソンが描いた小農と職人からなるビジョンは終わりを告げつつあった。ヘンリー・クレイの提案したアメリカ・システムが連邦政府の予算化したナショナル・ロードやエリー運河など他のプロジェクトで交通手段を革新していた。この時代に新しい鉄道が運河と直接競合を始め、鉄道会社は運河よりもかなり安い運賃かつ短時間で物品を運んだので、新たな交通革新が起こった。さらに鉄道は水路とは必ずしも結びつかなくても新線を建設していった。「貴族」と呼ばれることの多かった鉄道会社所有者は優先株式の販売と州政府の援助によって路線の拡大を手当てできた。多くの議会は鉄道会社に公有地を安く売り、州の金で鉄道会社の株を購入することで、州内に産業革命の経済的成功をもたらすことに熱心だった。間もなく連邦政府も鉄道会社との土地取引を始め、交通の発展を助長させた。市場に送られる商品の生産についても別の革新が起こった。建国当初は熟練した職人が自分の仕事場で自ら個別に商品を製造していた。1840年代には、この1個生産の仕組みが、個々に生産された部品を異なる場所で組み立て、商品として完成される分業生産の仕組みで置き換えられた。この分業生産は1つの場所で1つの部品を造り続けることで効率化が進んだ。イーライ・ホイットニーが普及させた互換性のある部品を用いる方法で、労働者達が1つの場所で部品を組み立て商品にする工場生産の仕組みが始まった。マサチューセッツ州ローウェルにあったような初期の工場は主に女性を雇用していた。1860年代までに工場生産の仕組みが隆盛してきたことで、熟練職人の時代は終わった。それでも工業化の大きな時代は南北戦争後まで待たなければならず、工業生産の大半はまだ小規模な工場での製造に頼っていた。
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