新しい精神 - キュビスム、性愛文学
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「ギヨーム・アポリネール」の記事における「新しい精神 - キュビスム、性愛文学」の解説
1904年、母アンジェリックがパリ郊外イヴリーヌ県のル・ヴェジネに居を定め、アポリネールはまだ自活できるだけの経済力がなかったため、ル・ヴェジネとパリを行き来していた。当時、同じイヴリーヌ県のシャトゥー出身の画家アンドレ・ドランとモーリス・ド・ヴラマンクは1900年から同地で共同のアトリエを構えていた。アポリネールは二人にセーヌ河畔で偶然出会い、以後、交友を深めることになった。さらに、1905年には当時まだ貧しかった画家らが住んでいた木造家屋「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」でパブロ・ピカソに会い、彼を介してここに住む詩人・画家のマックス・ジャコブらと親しくなった。『ラ・プリュム』誌の1905年5月号には「若者たち ― 画家ピカソ」と題する記事が掲載された。キュビスムの発端となる『アビニヨンの娘たち』が描かれる直前のことであり、主に『サルタンバンクの家族』などの「バラ色の時代」の作品を扱ったものである。 同年末頃から、同じく「洗濯船」に居住し、18歳で象徴主義演劇の劇団「芸術座(芸術劇場)」を立ち上げたポール・フォール(フランス語版)主宰の雑誌『韻文詩と散文詩』に寄稿し始め、象徴主義の詩「自由詩」、「冒涜」やアンドレ・サルモン論を発表している。この活動を通じて、特にジャン・モレアス、マティス、ピカソの芸術論『線の理論』(1905年)で知られる亡命ユダヤ系ポーランド人の美術批評家メシスラス・ゴルベール(フランス語版) と頻繁に行き来するようになった。 再び性愛小説に取り組み、1907年に『一万一千本の鞭』を発表した。これも当初は作者名が「G. A.」とイニシャルで示され、これがアポリネールの作品であることを知っていたのは友人だけであった。本書は発禁処分を受け、アポリネール作として再刊されたのは1970年のことである。 『ラ・プリュム』誌のへの寄稿を通じて交友も活動の場も広げたことで、他の雑誌や新聞に美術や文学に関する記事を発表する機会が増えた。その一つが、前衛詩人・文芸評論家の友人ルイ・ド・ゴンザグ=フリック(フランス語版)を介して知り合ったジャン・ロワイエールが主宰する象徴主義の雑誌『ラ・ファランジュ(フランス語版)』である。この雑誌は1906年7月から1914年5月まで刊行されたが、この寄稿において特に重要なのは、アポリネールが1908年1月号の同誌において絶賛したロワイエールの『ナルシスの裸の妹』の作品論としてアポリネール自身のナルシス論を提示していること、そして『ラ・プリュム』誌に掲載された、ナルシス神話に基づく『腐ってゆく魔術師』の最終章として翌2月号にロワイエールの影響下に書かれた「オニロクリティック」が掲載されたことである。また、この時期にはマティス、ジョルジュ・ブラック、ロベール・ドローネーに出会い、フォーヴィスムの画家に関する評論や、ヴィクロツ=エミール・ミシュレ(フランス語版)、ポール=ナポレオン・ポワナール(フランス語版)との共著『象徴主義の詩 ― アンデパンダン展 (1908) における詩人たちの午後』における「新ファランジュ」論 など芸術・文学評論を次々と発表した。また、1909年に1814年のマルキ・ド・サドの没後初めて作品集を編纂し、70ページ以上の紹介文と注釈を書き、後の(主にシュルレアリストらによる)サド再評価につながった。
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