南北戦争後(1865年-1900年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 20:57 UTC 版)
「ナチェズ (ミシシッピ州)」の記事における「南北戦争後(1865年-1900年)」の解説
戦後、ミシシッピ川の輸送業の大半が再開され、ナチェズは急速に経済力を回復した。換金作物は依然として綿花だったが、奴隷の労働はほとんど小作人によって置き換えられた。綿花に加えて木材のような地元産業が発展し、市の桟橋から輸出される商品に加えられた。その入れ替わりに、シンシナティ、ピッツバーグ、セントルイスなど北部の市場から加工品が入ってくるようになった。 19世紀のミシシッピ川を使った交易で市の著名な位置付けは、1823年から1918年まで下流に動いた「ナチェズ」と名付けられた9隻の蒸気船で表された。多くはトマス・P・レザーズ船長が建造し、指揮したものであり、ジェファーソン・デイヴィスはレザーズに南軍海軍ミシシッピ戦隊を任せようと考えたほどだった。1885年、セントルイスとニューオーリンズの間で豪華な蒸気船を運航したことで知られるアンカー汽船がその「自慢の船」として「シティ・オブ・ナチェズ」を進水させた。この船は1年間運航されたが、1886年12月28日にイリノイ州カイロで起きた火災で失われた。1975年以降ニューオーリンズの観光船が「ナチェズ」と名付けられている。 川による交易は20世紀に入った頃まで市の経済的成長を続けさせたが、蒸気船による輸送は鉄道に置き換えられ始めた。20世紀が進むに連れて、鉄道が通らなかった川沿いの多くの町と同様に、市の経済は衰退していった観光業がこの衰退を和らげることに貢献した。 戦後、さらにレコンストラクション時代、ナチェズの家事使用人の世界は、奴隷解放と自由に反応して幾らか変化した。戦後も大半の家事使用人の大半は黒人女性であり続けた。子供を養っている女性が多く、給与は安かったが、家族を維持するために重要な収入となった。白人従業員は奴隷所有者と奴隷の関係を特徴づけていた父系社会を継続することが多かった。白人従僕よりも黒人労働者を好むことが多かった。家事使用人として働く白人の男女は通常、庭師や家庭教師のような職業となり、黒人はコック、女中、選択人として働いた。
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