南北戦争前の時代(1783年-1860年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 20:57 UTC 版)
「ナチェズ (ミシシッピ州)」の記事における「南北戦争前の時代(1783年-1860年)」の解説
18世紀後半、ナチェズはナチェズ・トレイスの出発点だった。これは元々バッファローのような動物が回遊する獣道だったものをインディアンが使った山道であり、ナチェズから、現在のミシシッピ州、アラバマ州、テネシー州を抜けてテネシー州ナッシュビルまで続いていた。平底船や竜骨船の船員はミシシッピ川で物品を運び、通常はナチェズやニューオーリンズでその船(木材として)を含め物品を売却した。北にある故郷にはナチェズ・トレイスを歩いて戻った。船員はケンタッキー州から来ることが多かったので、「ケインタックス」と地元では呼ばれた。オハイオ川バレー全体で見てもケンタッキー州民の比率が高かった。 1795年10月27日、スペインがサンロレンソ条約に調印し、長く続いていた境界論争を解決した。ナチェズに対するスペインの領有権は正式にアメリカ合衆国に譲られた。そこのスペイン守備隊に公式の命令が届くまで2年以上が掛かった。アイザック・グィオン大尉が率いるアメリカ軍に砦を引き渡し、ナチェズの所有権を譲ったのは1798年3月30日のことだった。 その1週間後、ジョン・アダムズ政権が新設したミシシッピ準州の初代州都になった。準州首都として数年間が経過した後、同じアダムズ郡内の6マイル (10 km) 東にワシントンという新しい首都を建設した。それから約15年経った1817年末、準州が州に昇格したときに、州議会が州都をナチェズに戻した。さらに後に州都はワシントンに戻された。多くの開拓者が地域に入ってきて州の人口重心が北と東に移ってきた1822年、議会は州の中央に近い場所であるジャクソンに州都を移した。 19世紀の初期を通じて、この新生ミシシッピ州の経済活動の中心だった。ミシシッピ川を見下ろす東岸崖上の戦略的な位置にあり、活力ある港に発展することを可能にしていた。地元プランテーション所有者の多くが、ナチェズ・アンダー・ザ・ヒルと呼ばれた揚陸点で蒸気船に綿花を積み込み、下流のニューオーリンズ、あるいは上流のセントルイスやシンシナティに向けて出荷した。綿花はニューイングランド、ニューヨーク、さらにはヨーロッパの紡績、紡織工場に向けて販売され出荷された。 ナチェズ地区は、サウスカロライナ州やジョージア州のシー諸島と共に、国内綿花栽培を始めた土地だった。19世紀初期に綿花の新しい交雑種が作られるまで、これら2地域を除いては国内で綿花は利益のでない作物だった。サウスカロライナ州は18世紀から南北戦争前の時代初期を通じて南部の綿花プランテーション文化を支配したが、ナチェズ地区は初めて交雑種を実験し、綿花ブームを可能にした。歴史家達は、ディープ・サウスに綿花栽培を拡大した主要因を、イーライ・ホイットニーによるコットン・ジンの開発に帰している。それは加工費を下げ、短繊維綿花を取り扱えるようにしたので、綿花を利益の出る作物にした。ディープ・サウスのブラックベルト高地で栽培されたのが、この種の綿花だった。綿花プランテーションは急速に拡大し、南部では奴隷に対する需要を増加させた。 綿花産業の成長によってミシシッピ州に多くの新開拓者を惹き付けたので、彼等は土地を巡ってチョクトー族インデァインと争うようになった。土地の譲渡が続いたにも拘わらず、開拓者はチョクトー族の領土に侵入を続け、それが紛争の元になった。1828年にアンドリュー・ジャクソンが大統領に当選し、インディアン移住を推進し、1830年にはそれを認める法について議会の承認を得た。1831年、チョクトー族を始めとして南東部インディアンのミシシッピ川以西への強制移住が始められた。その後の2年間で15,000人近いチョクトー族が昔からの故郷を離れた。 1840年5月7日、激しい竜巻がナチェズを襲い、269人の死者を出したが、その大半はミシシッピ川で平底船に乗っていた者達だった。全体での死者は317人となり、アメリカ史の中でも2番目に被害の大きいものになている。現在ではグレート・ナチェズ竜巻と呼ばれている。 ミシシッピ川岸のナチェズがある周辺の地形は丘陵が多い。市は川を見下ろす高い崖の上に立っている。川岸に達するには急峻な道を下ってシルバー通りと呼ばれる上陸点に行く必要があり、対岸のルイジアナ州ビデイリア市周辺の平坦な「デルタ」低地とは対照的である。南北戦争前の時代に多くの邸宅や敷地を造ったのは初期の農園主特権階級だった。多くの者はルイジアナ州にプランテーションを所有していたが、その家屋にはミシシッピ川沿いの高台を選んだ。南北戦争前、人口1人当たりの百万長者数は国内でも最大だった。アーロン・バー、ヘンリー・クレイ、アンドリュー・ジャクソン、ザカリー・テイラー、ユリシーズ・グラント、ジェファーソン・デイヴィス、ウィンフィールド・スコット、ジョン・ジェームズ・オーデュボンなど著名人が訪れることも多かった。南北戦争中に南部の都市のような破壊を免れたので、国内のどの都市よりも戦前の家屋が残っていることを誇りにしている。 ロード・マーケットの裏道はナチェズでも最も多く奴隷の売買が行われた所であり、ミシシッピ州では最も活発な奴隷貿易市場だった。このことで市内の富みを増やすことにも貢献した。市場は2つの通りの交差点にあり、1823年に奴隷交易業者であるテネシー州のアイザック・フランクリンとバージニア州のジョン・アームフィールドが土地を購入してからは特に重要な場所になった。バージニア州とアッパー・サウスから、数万人の奴隷がこの市場を通っていき、多くは陸地を徒歩で運ばれ、ディープ・サウスのプランテーションに向かった。この強制移住の中で100万人以上のアフリカ系アメリカ人がその家族と別れ、ディープ・サウスに移動した。この市場での取引は、北軍がナチェズを占領した1863年夏までに終わった。 1845年のナチェズ大学設立より以前、市の特権階級だけが正式な教育に私的に費用を払える数少ない者達だった。親の多くはあまり教育を受けていなかったが、子供達には権威ある教育を受けさせることに熱心だった。市内では1801年に既に学校が開校されていたが、裕福な家庭の多くは私的な家庭教師や州外の教育機関に頼った。市内のそのように裕福ではない白人に無償教育を提供するために、ナチェズ大学を設立した。様々な経済力の家庭から子供達が教育を受けられたが、生徒の間でも階級の違いが継続し、特に学校の選択と社会的な結びつきの違いが大きかった。違法なことと考えられていたものの、奴隷の子供達も民家でアルファベットと聖書の読み方を白人遊び仲間から教えられることも多かった。
※この「南北戦争前の時代(1783年-1860年)」の解説は、「ナチェズ (ミシシッピ州)」の解説の一部です。
「南北戦争前の時代(1783年-1860年)」を含む「ナチェズ (ミシシッピ州)」の記事については、「ナチェズ (ミシシッピ州)」の概要を参照ください。
南北戦争前の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 22:32 UTC 版)
「ワクラ郡 (フロリダ州)」の記事における「南北戦争前の時代」の解説
ワクラ郡は1843年にレオン郡から分離して設立された。郡名はティムクアン族インディアンの言葉で「泉の水」あるいは「不思議な水」を意味するとしているが、異論もある。これは、郡内最大の観光地であり、深さでも水量でも世界最大級とされる清水泉、ワクラスプリングスに言及したものである。1974年、水量を計測すると1日12億3千ガロン (4,700,000 m3) あり、単一の泉として最大の記録となった。 1856年に冒険家チャールズ・ランマンが著した本で、泉のことについて次のように記していた。 この巨大な泉のことをペンや鉛筆で適当な言葉に記すことはできないだろうが、晴れた静かな日に一目見たならば、その後は夢に見、愛さずにはいられなくなるに違いない。それは1つの川の水源であり、...この厳粛な自然に敢えて許されるならば、蒸気船を浮かべられる水量がある。...糸杉の深い湿地のまさに心臓部から湧き出ており、形状は真円に近く、直径は400フィート (120 m) ほど、深さは約150フィート (45 m)、底には大きな水平の亀裂があり、暗い門となっている。その片側からは石灰岩の崖が聳え立ち、その頂上はちっぽけなボートの船べりから見下ろす者の下50フィート (15 m) 近く下にある。水は驚くほど清澄であり、最も深い所にある針でも見えるほどであり、もちろんその中で動くものも動かないものも見えることになる。岸から見る水の色は緑がかっているが,垂直に見下ろすと空気のように色が無く、それに浮かべば気球で浮かんでいるようである。水が反射するので、日光が見るものすべてに輝き、最も魅惑的で鮮やかな色合いに包まれる。 ワクラという名前の由来は、「霧」あるいは「霧雨」を意味するという説もあるが、広く受け入れられているわけではない。おそらく19世紀に何マイルも離れて見られた湿地から立ち上る煙の柱という現象をワクラ火山と呼んだことによっている。 ポートレオンの町はかつて綿花出荷の拠点として繁栄し、通常はヨーロッパに向けて出荷する綿花を年間5万トン以上列車で運んで船に積み替えた。ポートレオンの人口は1,500人と、フロリダでは6番目に大きな町だった。しかし、ハリケーンとそれに伴う高潮で町全体が消えた。2マイル (3 km) 上流にニューポートの町が建設されたが、ポートレオンほど繁栄することは無かった。
※この「南北戦争前の時代」の解説は、「ワクラ郡 (フロリダ州)」の解説の一部です。
「南北戦争前の時代」を含む「ワクラ郡 (フロリダ州)」の記事については、「ワクラ郡 (フロリダ州)」の概要を参照ください。
南北戦争前の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/20 08:34 UTC 版)
「マイアミ郡 (カンザス州)」の記事における「南北戦争前の時代」の解説
1854年のカンザス・ネブラスカ法によってカンザス準州が設立されたときに、1820年のミズーリ妥協は事実上撤廃された。東には奴隷州のミズーリ州があり、マイアミ郡周辺の地域は、奴隷制度廃止運動家と、ミズーリ州から州境を超えてきた奴隷制度擁護派の「ボーダー・ラフィアンズ(英語版)」との抗争の場になった。暴力沙汰や戦闘は主に1854年から1858年に起こり、境界戦争とも呼ばれ、カンザスは「血を流すカンザス」と呼ばれた。カンザスは当時まだ州になっておらず、奴隷州になるか自由州になるかの争いだった。他の州から多くの奴隷制度廃止運動家が地域に入ってきて、カンザスが自由州として合衆国に加盟する道を確保した。郡内で最も著名な奴隷制度廃止運動家は、ジョン・ブラウンであり、オサワトミー市に移住して、そこを反奴隷制度部隊の本拠地にした。その結果、オサワトミー市や周辺の田園部と町は、この期間の戦闘や暴力沙汰の中心地となった。
※この「南北戦争前の時代」の解説は、「マイアミ郡 (カンザス州)」の解説の一部です。
「南北戦争前の時代」を含む「マイアミ郡 (カンザス州)」の記事については、「マイアミ郡 (カンザス州)」の概要を参照ください。
南北戦争前の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 14:22 UTC 版)
「テネシー州の歴史」の記事における「南北戦争前の時代」の解説
開拓の初期の時代、入植者達はケンタッキー州やバージニア州から奴隷を連れて入ってきた。奴隷化されたアフリカ系アメリカ人は初めの頃中部テネシーに集中し、農園主はケンタッキー州の内部ブルーグラス地域で行っていたように、種々の穀物を栽培し、高品質の馬や牛を飼育した。東部テネシーには自給自作農が多く、奴隷所有者は少なかった。 州形成の初期、州の中部と東部では白人が奴隷労働者(雇われることもできた)との競合を恐れたこともあって、奴隷の解放を支持する声があった。1796年の憲法制定会議で、解放された黒人は住所と資産の要求事項を満たせば投票権を与えられた。奴隷制を廃止しようという動きはこの会議と、1834年の会議で再度否決された。1834年の会議は、解放されたアフリカ系アメリカ人の参政権をテネシー州が撤回する機会だった。この時までに奴隷を所有する慣習が州内に著しく広まり、特にミシシッピ・デルタでは綿花農園主が多数の、しばしば数百人におよぶアフリカ系アメリカ人奴隷を所有した。 1830年までにアフリカ系アメリカ人の数は、19世紀の初めに4,000人に満たなかったものが、146,158人まで増加した。このことは主に西テネシーのコットンベルトであるミシシッピ・デルタに大規模プランテーションが発展し、数多い奴隷を連れてきたことに関係していた。アフリカ系アメリカ人労働者は綿花プランテーションを作り上げ、農園主に大きな富をもたらした。1860年までに、奴隷人口はほぼ2倍の283,019人となり、州内に自由黒人はわずか7,300人がいるだけだった。奴隷の大半は西テネシーに集中しており、中部テネシーの農園主もアフリカ系アメリカ人を労働力として使ったが、使用範囲が狭く、その数は少なかった。南北戦争前の1860年の国勢調査に拠ると、州人口110万人のうち約25%がアフリカ系アメリカ人奴隷だった。
※この「南北戦争前の時代」の解説は、「テネシー州の歴史」の解説の一部です。
「南北戦争前の時代」を含む「テネシー州の歴史」の記事については、「テネシー州の歴史」の概要を参照ください。
南北戦争前の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:31 UTC 版)
「ケンタッキー州の歴史」の記事における「南北戦争前の時代」の解説
1811年暮れから1812年明けに掛けて、ケンタッキー州西部は、アメリカ合衆国本土で記録された中では最大とされるニューマドリード地震と呼ばれる一連の地震で大きな被害を受けた。これらの地震でミシシッピ川はその流れを変え、ケンタッキー屈曲部ができた。
※この「南北戦争前の時代」の解説は、「ケンタッキー州の歴史」の解説の一部です。
「南北戦争前の時代」を含む「ケンタッキー州の歴史」の記事については、「ケンタッキー州の歴史」の概要を参照ください。
- 南北戦争前の時代のページへのリンク