アメリカ合衆国への取り込みと南北戦争前の時代(1803年 - 1860年)
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「ルイジアナ州の歴史」の記事における「アメリカ合衆国への取り込みと南北戦争前の時代(1803年 - 1860年)」の解説
詳細は「ルイジアナ買収」を参照 ナポレオンはハイチでの挫折の結果として、アメリカ大陸での帝国の夢を諦め、ルイジアナをアメリカ合衆国に売却した。ルイジアナはその後2つの地域に分けられた。オーリンズ準州は1812年にルイジアナ州となり、ルイジアナ地区はオーリンズ準州に含まれない全ての地域を指した。フロリダ郡は1810年のジェームズ・マディスン大統領の宣言により、短命に終わった戦略的に重要な西フロリダ共和国から併合された。 1804年のハイチ革命による別の結果として、多くの難民がルイジアナに流れ、主にニューオーリンズに入った。数千ものハイチ人移民には多くの有色自由人、白人および奴隷にされたアフリカ人がいた。難民の中にはまずキューバに行った者もおり、キューバ人の移民も1809年の大規模移民で到着した。有色自由人は基本的にニューオーリンズでは有色クレオール社会に加わり、またフランス語を話す社会も大きくした。 ルイジアナの西の国境はスペイン領テキサスと接しており、1819年のアダムズ=オニス条約まで紛争が続き、ルイジアナ中立地が中立の緩衝地帯として働き、受刑者の天国にもなった。ここは「人のいない土地 (No Man's Land)」とも呼ばれ、ルイジアナの中部および南西部はレッドボーンと呼ばれる混血の人々によって開拓された。レッドボーンの起源については今でも論争が続いている。 19世紀初期の数十年間に中西部(元は北西部領土)と深南部での開拓が進み、ニューオーリンズでは交易と海運が著しく増加した。中西部から出荷された農産物や工業製品がミシシッピ川を下って海外に向けて船積みされ、ニューオーリンズ港に入った国際船で輸入された物が内陸に送られた。港は蒸気船、平底船および帆船で賑わい、多くの国から来た様々な言語を話す労働者がいた。ニューオーリンズは綿花と砂糖の主要輸出港だった。市の人口は増加し、この地域は極めて豊かになった。深南部の他の地域以上に市内の職を求める移民が集まった。最も富裕な市民層はワイン、装身具および布地など洗練された商品を輸入した。 1840年までに、ニューオーリンズは合衆国最大の奴隷市場となった。国中でも最大級の富裕な都市となり、人口では3番目になった。奴隷輸入の禁止によって国内市場に対する需要が増加した。アメリカ独立戦争後の数十年間、百万人を越える奴隷化されたアフリカ系アメリカ人がアップランドサウスから深南部への移動を強制され、その3分の2は奴隷取引によっていた。他の者は奴隷所有者としての主人によって西部の新天地に移動させられた. 。 アップランドサウスにおいて、農園主たちがタバコから労働集約的ではない作物の組み合わせに移行するという農業の変化で、農園主は過剰な労働力を持った。多くの者は新しい辺境に行くために奴隷たちを取引業者に売ることになった。奴隷たちは取引業者によってアップランドサウスから陸路を連れて行かれるか舟でニューオーリンズに運ばれた。ニューオーリンズで売られた後はミシシッピ川を運航する蒸気船で、ナチェズやメンフィスなど上流の市場やプランテーションに運ばれた。
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