アメリカ合衆国への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「アメリカ合衆国への影響」の解説
アメリカ合衆国からは1923年、マーヴィン・ファーバーがフライブルクでハイデッガーの講義を受けた。1929年、シドニー・フックはハイデッガーの哲学とジョン・デューイの哲学が平行していると考え、デューイに「存在と時間」の要約を伝えるとデューイは自分の哲学が超越論的ドイツに翻訳されたようだと答えた。マージョリー・グレン(グリックスマン)が1931年に『存在と時間』を読み、フライブルク大学でハイデッガーの講義を受けた。マージョリー・グレンは1948年にハイデッガーを論じたDreadful Freedom: A Critique of Existentialismを、さらに1957年に『マルティン・ハイデッガー』を刊行したし、これがアメリカでの初の入門書となった。マージョリー・グレンは『存在と時間』は本物の哲学的力を持っているとしたが、後期ハイデッガーについてはバラバラで単調で切れ味が悪いと評価した。 アメリカ合衆国での思想史・文化史の父とされるルネサンス古典学者ポール・オスカー・クリステラー(Paul Oskar Kristeller)もハイデッガーの影響を強く受けており、1926年にマールブルクでのハイデッガーの講義と歴史主義についてのゼミナールに感銘をうけ、1931年にはフライブルク大学においてルネサンス期のネオプラトニズム哲学者マルシリオ・フィチーノに関する学位資格論文をハイデッガー主査で作成した。その後、クリステラーはアメリカに招聘されたが、ドイツに残ったユダヤ系の両親は強制収容所で亡くなった。クリステラーは精神分析家のハンス・ローワルド、カール・レーヴィット、アレントからの書簡とのやりとりではハイデッガーに言及し、またハイデッガーへの1973年4月9日の書簡ではフライブルクを訪問したいと述べている。クリステラーの1943年の著作『マルシリオ・フィチーノの哲学』はハイデガーの影響を強く受けている。 政治哲学者レオ・シュトラウスはフライブルク大学とマールブルク大学でのハイデッガーのアリストテレス講義を聞き、ハイデッガーの影響を受けている。ギュンター・アンダース(Günther Anders)はハイデッガーの下で学んだあとハンナ・アーレントの最初の夫となり(1937年離婚)、その後アメリカへ亡命した。同じくアメリカへ亡命したヘルベルト・マルクーゼとともにギュンター・アンダースはハイデッガーの哲学の危険性と欠点について研究し、1947年「哲学と現象学的研究」を刊行した。 オックスフォード大学でギルバート・ライルに哲学の指導を受けたテレンス・マリックは1960年代にハイデッガーの家を訪れ、帰国後1969年にハイデッガーの1929年の「根拠の本質について(Vom Wesen des Grundes)」を英訳し、その後映画監督となった。 リチャード・ローティは著書『哲学と自然の鏡』において、ハイデッガーは体系的哲学におけるような普遍的共約化に懐疑的であり、ウィトゲンシュタインなどと同様の啓発的哲学とした。ヒューバート・ドレイファスは1991年、『世界内存在』を発表した。2001年、ジョージ・マイアソンは『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』で、現在の携帯電話でのコミュニケーションをハイデッガーとハーバーマスの理論から考察した。 ジャージ・コジンスキーは1971年の小説『Being There(邦題:庭師 ただそこにいるだけの人)』をハイデッガーの現存在(Dasein)の考えのもと書いたが、コジンスキーはこれは「ハイデッガー主義者の小説」ではないと言っている。ウディ・アレンは1980年の短編「ニードルマンの思い出」でハイデッガーを風刺している。アメリカ同時多発テロ事件で破壊されたワールドトレードセンター跡地に再建された1 ワールドトレードセンターなどを手がけたダニエル・リベスキンドはハイデッガーの哲学に影響を受けている。
※この「アメリカ合衆国への影響」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「アメリカ合衆国への影響」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。
- アメリカ合衆国への影響のページへのリンク