アメリカ合衆国への編入と南北戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 00:43 UTC 版)
「ペンサコーラ (フロリダ州)」の記事における「アメリカ合衆国への編入と南北戦争」の解説
1812年に開戦した米英戦争の最中、イギリスはスペインの同意の下にペンサコーラに駐留し、砦にユニオンジャックを掲げ、周辺地域のネイティブ・アメリカンを加勢させ、訓練を行っていた。すると、アメリカ合衆国の少将アンドリュー・ジャクソンはイギリスのそうした動きを止めるべく、米英戦争末期の1814年11月、テネシー・ケンタッキー両州の志願兵と共にペンサコーラに進軍し、占領し、イギリス軍を追い出した。その時はジャクソンはペンサコーラへは2日間しか逗留せず、ニューオーリンズへと兵を進めた。 ジャクソンの2度目のペンサコーラ侵攻は第一次セミノール戦争の最中、1818年5月であった。ペンサコーラでネイティブ・アメリカンの軍勢に武器が与えられ、訓練が施されていると考えたジャクソンは、セントオーガスティンからペンサコーラへ進軍し、数発の威嚇砲を放って開城させた。その後ジャクソンはテネシーに帰り、1819年9月には西フロリダがスペインに返還されたが、その時には既に西フロリダはアメリカ合衆国の実効支配下に入っており、またアダムズ=オニス条約の締結によってアメリカ合衆国によるフロリダ購入も決定的になっていた。1820年10月にスペインが、翌1821年2月にはアメリカ合衆国がそれぞれこの条約を批准し、1821年7月、東西フロリダは統合されたフロリダ準州として、正式にアメリカ合衆国のものとなった。ジャクソンはこの新しい準州の軍政府長官に就任したが、1年も経たないうちに辞任し、後継のウィリアム・デュバルが正式な初代フロリダ準州知事となった。やがて1824年、東西フロリダそれぞれの首都であったセントオーガスティンとペンサコーラの中間点にあったタラハシーがフロリダ準州の州都に定められ、ペンサコーラは西フロリダの政治の中心地としての役割を終えた。 しかし、タラハシー遷都後もなお、ペンサコーラは軍港・商港の港湾都市、そして地域経済の拠点として重要な都市であった。もともと天然の良港に恵まれていたことに加えて、周辺地域の森林資源が豊富であったこと、そして起業家が次々と現れたことから、19世紀前半のペンサコーラは製材産業の中心地として発展した。1825年には、ペンサコーラ港の存在と豊富な木材が造船に有利と考えられ、第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズと海軍長官サミュエル・サウサードがペンサコーラ海軍航空基地の前身であるペンサコーラ海軍工廠の設置を取り決めた。1830年代に入ると、蒸気機関の普及で製材所の効率が格段に上がり、この地域の製材産業に更なる発展がもたらされた。 1845年、アイオワ準州を自由州として昇格させるのと同時に、フロリダ準州は奴隷州として、自由州/奴隷州の数の均衡を取った形で州に昇格した。しかし、1861年1月10日、フロリダ州は連邦から離脱してアメリカ連合国に加入した。その翌々日、1月12日には、ペンサコーラ海軍工廠が南軍に占拠された。一方、サンタローザ島の西端に建ち、ペンサコーラ港防衛の要であったピケンズ砦は、北軍が死守したままであった。やがて南北戦争が開戦し、同年10月9日には、南軍がピケンズ砦の奪取を狙ってサンタローザ島の戦いを仕掛けたが、失敗に終わった。翌1862年5月には、南軍がペンサコーラの街を焼き払って撤退し、住民は内陸へと避難し、北軍がペンサコーラを占領した。
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