アメリカ合衆国への進出
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「起立工商会社」の記事における「アメリカ合衆国への進出」の解説
1876年(明治9年)、アメリカ合衆国建国100年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会に起立工商会社として初参加する。大人数での出張となり、顔ぶれは松尾儀助、若井兼三郎、西尾喜三郎、原口太助、八戸欽三郎などであった。佐賀出身であった八戸は、米国イェール大学卒業で、英語が堪能であったため通訳を一任されていた。そのほか、茶商1人と醤油の亀甲萬(キッコーマン)の主人、永岡善八が社員とともに渡米した。この時、松尾は香蘭社製の有田焼(伊万里焼)に力を入れ、当時の香蘭社の深川栄三衛門らを応援し、以後、エキゾチックな異国趣味の陶磁器はアメリカ人の心をつかんだ。 博覧会と時を同じくして東洋美術の殿堂と称されるボストン美術館も開館している。当時の美術館関係者は、「博覧会はコレクションを増やす絶好の機会であり、アメリカ芸術の著しい進歩に繋がることがわかるだろう」と期待を表明、後にボストン美術館の日本美術部長となるアーネスト・フェノロサは「日本の展示は驚きの宝庫」と評している。 起立工商会社の展示品は、当時の宮内省が認定した帝室技芸員が選定しており、一級品が展示された。博覧会の効果もあり、アメリカでの需要を確信した社長の松尾儀助は、1877年(明治10年)日本への帰国途中にニューヨークへ立ち寄り、ブロードウェイ456番地に賃料年間3000ドルの店舗物件を仮契約し帰国する。帰国後すぐに同じ佐賀県出身で、旧知であった当時の大蔵卿・大隈重信を訪ね、日本の国力を伸ばすため、さらなる世界進出を直訴すると、松尾の商才に一目おいていた大隈はただちに松尾の要望を受け入れ、その年に八戸欽三郎を支店長に据えニューヨーク支店を開店する。 ニューヨーク支店では、八戸欽三郎、高柳陶造、原口太助、西尾喜三郎、小森徳之など日本人10名、時に米国人を2 - 15人ほど雇用し、日本の織物、蒔絵、漆器、陶磁器、絹、木綿製品、銅器などの工芸品を扱った。1880年に卸部門が発足、執行弘道が主任として雇われ、翌年八戸が急死すると執行は支店長に任命された。執行は佐賀藩出身で、大学南校(東京大学の前身)で学び、アメリカ留学の後、外務省に勤務し中国へ渡り、三井物産香港支店の支店長を経て、起立工商会社に起用された。この時代、起立工商会社は異国情緒溢れ、日本の商品を直接買える店として、ニューヨークでは目立つ存在になり、社名はThe First Japanese Manufacturing and Trading Companyを主として使い、現在でもその名は欧米ではよく知られている。 ニューヨーク支店の開設については後に大隈重信が「紐育(ニューヨーク)日本人発展史」の序の中で、「松尾儀助氏が起立工商会社を起こして日米貿易の礎を築き・・・」と記しており、日米間の貿易の画期をなす快挙となった。
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