自由州
自由州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 22:21 UTC 版)
「ブラウンシュヴァイク自由州」の記事における「自由州」の解説
ヤスパー政権政府の公共政策は安定していたが、1920年の州選挙で社会民主党が大きく議席を失ったことから、首相は独立社会民主党のゼップ・オーターに交代した。1922年1月6日にはブラウンシュヴァイク自由州憲法が採択された。 1922年の選挙では社会民主党・独立社会民主党連立政権は過半数を失い、社会民主党は連立の相手を自由党とドイツ人民党 (DVP) に切り替えて政権を維持した。当時新興勢力だったナチ党 (NSDAP) は、ブラウンシュヴァイクとヴォルフェンビュッテルに最初の地方支部を設立したが、1923年9月13日に州政府の禁止命令で閉鎖した。それにも関わらず、1924年にゼップ・オーターが左派から右派に宗旨替えしてナチ党に参加すると、ナチ党は州議会第一党となった。 1924年の州選挙の後、人民党はさまざまな国家自由主義政党や保守政党と合同して右派連立政府を成立させた。その中には、ミュンヘン一揆で非合法化されたナチ党の偽装組織である国民社会主義自由運動 (NSFB) も含まれていた。ハインリヒ・ヤスパー率いる社会民主党は1927年の選挙に勝利して再び政権を握ったが、1930年の選挙では過半数を確保できなかった。一方のナチ党の得票率は22.9%に達し、アントン・フランツェン(ドイツ語版)を内務大臣として入閣させた。フランツェンは1931年9月15日には同じくナチ党のディートリヒ・クラゲスに交代した。 クラゲスは野党寄りの公務員を解任し、1931年10月のハルツブルク戦線結成に貢献した。ナチ党に対する特に大きな貢献は、7年間に渡って無国籍者であった元オーストリア人のナチ党総統アドルフ・ヒトラーをブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在公使館付参事官に据えることでドイツ国籍を取得(ドイツ語版)させ、1932年ドイツ大統領選挙に立候補できるようにしたことである。最初はブラウンシュヴァイク工科大学の職を与えて国籍を取得させようとしたが叶わず、1932年にライヒ参議院に派遣する州代表団の公務員に任じたのである。州の公務員には州の市民権が与えられるため、自動的にドイツ国籍も与えられるというからくりであった。この官職は高給であったが、ヒトラーがこの官職で活動した記録はない。その後、1933年1月30日にヒトラーがドイツ国首相に就任すると、この官職は解かれた。 ナチ党の権力掌握の前後には、ドイツ共産党員や社会民主党の政治家の多くがブラウンシュヴァイクで逮捕された。1933年3月の国会選挙の結果を受けて州議会の党派構成も再編され、全国で国家人民党の議員がナチ党に合流したため、州議会議員はすべてナチ党所属になった。クラゲスは5月6日にブラウンシュヴァイク自由州首相に選出され、同じくナチ党のフリードリヒ・アルパース(ドイツ語版)法相やフリードリヒ・イェッケルン警察長官とともに恐怖政治体制を確立した。しかし、その後の強制的同一化により司法権や警察権が中央政府に集約され、さらに行政権も国家代理官 (Reichsstathalter、ライヒ代官または州総督とも) の手に移ると実権を失った。最後の州議会は1933年6月13日に開会し、10月14日に閉会した。
※この「自由州」の解説は、「ブラウンシュヴァイク自由州」の解説の一部です。
「自由州」を含む「ブラウンシュヴァイク自由州」の記事については、「ブラウンシュヴァイク自由州」の概要を参照ください。
「自由州」の例文・使い方・用例・文例
- 自由州のページへのリンク