自由将校団への参加とエジプト革命
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「アンワル・アッ=サーダート」の記事における「自由将校団への参加とエジプト革命」の解説
サダトはミヌーフィーヤ県のミト・アブー・アル=クムで、貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として誕生した。1937年末、カイロの王立陸軍士官学校1期生を卒業し、当初カイロ近郊の通信部隊に配属されたが、間もなく第3旅団附としてマンカバド(英語版)に転属。ここで2期生卒業のガマール・アブドゥル=ナーセル、ザカリア・ムヒエディン(英語版)と出会い、やがて彼らは密かに士官達の祖国解放運動に加わる。それは1922年にイギリスの保護領として成立したエジプト王国において、実権を握るイギリス軍の支配から、真に祖国を解放しようという運動であった。1939年12月、カイロ・マーディ(英語版)の陸軍通信学校に入学、卒業時には生徒代表として答辞を読む。卒業後、マーディに留まり、通信部隊長。僻地に転任したナセルとアーメルに代わって地下組織の育成にいそしむ。 第二次世界大戦中の1942年、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団はエル・アラメインまで進撃していた。祖国解放を目指したサダトは、ゲズィーラ島のザマーレク(英語版)にナセルらと集まり、ドイツ軍に呼応して、カイロ市内でナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した。また、イギリスの圧力で解任された参謀総長アジズ・エル・アル=マスリ(英語版)がドイツ軍より呼応を求められていると知るや、その手段を講じ、最終的にドイツ軍陣地までエジプト陸軍の飛行機を飛ばそうと計画するも、離陸直前に飛行機が大破して失敗。その後、接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員(サラム作戦(英語版))が逮捕され自白したことでサダトの名前が上がり、軍法会議にかけられる。なお、スパイの協力者であった踊り子ヒクマト・ファフミーがサーダートの愛人であったとのち告白しているが、サダトは否定している。その後、証拠不十分で銃殺は免れたが、軍籍剥奪の上投獄され、初めは外国人留置所に、次に監獄病院と拘留生活を送った。1944年に脱獄し、終戦までカイロの日本庭園で潜伏する。 士官学校の同期で友人のガマール・アブドゥル=ナセルとともに自由将校団を結成し、1952年のクーデター(エジプト革命)に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し、国民に革命の発表を行なった。
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