南北戦争以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 01:27 UTC 版)
「フレデリック (メリーランド州)」の記事における「南北戦争以降」の解説
フレデリック市が主要な交差点であるという位置付けのために、南北戦争のメリーランド方面作戦ではこの町が中心になった。この間、北軍も南軍も町を通過した。1862年9月、南軍のストーンウォール・ジャクソン将軍はその軽歩兵師団を率いてフレデリック市を通過し、サウス山の戦いやアンティータムの戦いへ導いた。このときペンシルベニア・ダッチの住人バーバラ・フリッチーがジョン・グリーンリーフ・ホイッティアによる詩に歌われることになる事件があった。北軍のジェシー・リー・リノ将軍の第9軍団はジャクソン軍より数日遅れてこの町を通って、サウス山の戦いに向かい、そこでリノは戦死した。 シュライ家はおそらくドイツでの血筋から軍国的愛国主義の信条が篤かった。南北戦争の間、エドワード・シュライ大佐(1857年没)の従兄弟であるヘンリー・シュライ少佐は、72歳で北軍のルー・ウォーレス将軍の副官を務めた。ウォーレスはウィリアム・シャーマンやドン・カルロス・ビューエル各将軍と共に、1862年のシャイローの戦いでユリシーズ・グラント将軍の重要な副官の1人だった。ウォーレス将軍はまた、1864年のモノカシーの戦いでは南軍のジュバル・アーリー将軍の部隊とフレデリック郊外で戦った。ヘンリー・シュライ少佐の息子、フェアファックス・シュライ博士は戦後に著名な市民指導者となり、フレデリック郡農業協会やグレート・フレデリック・フェアを設定する主唱者になった。その従兄弟、ウィンフィールド・スコット・シュライ提督は1860年から米西戦争までアメリカ海軍に在籍し、1898年のサンティアゴ湾の戦いではスペイン艦隊に勝利したアメリカ艦隊を率いた。ジルマー・シュライは1919年から1922年までフレデリック市長を務め、シュライ家は20世紀後半まで市の指導的家系の一つであり続けた。マーガレット・シュライの息子、ナサニエル・ウィルソン・シュライは農夫および機械工市民国定銀行の著名な銀行家だった。その妻、メアリー・マーガレット・シュライは「アメリカ独立戦争の娘達」会員、庭園協会の長年の指導者とフレデリック郡農業協会の終身会員、州内では2大農業祭の一つである毎年開催のグレート・フレデリック・フェアで後援者と組織者(もう一つの祭りはティモニウムで毎年開催されるステイト・フェア)だった。その息子であるドナルド・ジルマー・シュライは、ジョン・T・ベスト、ゴードン・スミス、フランク・ストーファー、エモンズ・C・サナーなどフレデリック郡農業協会の他の理事会メンバーと共に活動し、1960年代後半に、当時衰退しつつあったフェアの夜の催しを、ニューヨークのステージショーやボルシチ・ベルトのコメディアン興行からカントリー・ウェスタンの興行に変えていった。彼等はまず、バーバラ・マンドレルとルイーズ・マンドレル姉妹のようなスターを連れてきて、後にはリーバ・マッキンタイア、リー・グリーンウッド、リアン・ライムス、ロレッタ・リン、ソウヤー・ブラウン、トビー・キース、ケニー・チェスニー、ランディ・トラビス、ジョージ・ジョーンズなど多くの著名なカントリー・ウェスタンのスターを毎年9月の祭りの連れてきて、この祭りを毎年の主要カントリー・ウェスタンの祭典の場所にしていった。シュライ・アベニューは市が継承してきたシュライ家の役割を記念するものである。 フレデリックには1740年代から既にユダヤ人が住んでおり、草分けとしてはヘンリー・ラザルスやリーバイ・コーハンが商人としてここに入った。主にドイツ系ユダヤ人移民で構成される組織化されたユダヤ人社会が19世紀半ばに形を取り始め、1858年にはフレデリック・ヘブライ・コングリゲーションが組織化されたが、1919年には古い移民とそれよりは後に到着した東ヨーロッパ系ユダヤ人との協調のためにベス・ショーロムという名前で再編された。もう一つコル・アミ・オブ・フレデリックと呼ばれる信徒団が2003年に結成された。 1905年、E・B・ハッチャー牧師がフレデリックでは初めてのバプテスト教会を始めた。 1921年、ウェスト・オールセイント170番に最初のアフリカ系アメリカ人高校が設立された。後にマディソン通り250番に移転し、最終的にサウスフレデリック・エリメンタリーとなった。この建物は今も残っており、リンカーン小学校が入っている。
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