南北戦争前の政治定期変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 07:06 UTC 版)
「チャールストン (サウスカロライナ州)」の記事における「南北戦争前の政治定期変化」の解説
19世紀の前半、サウスカロライナは「州の権限」が連邦政府の権威に勝るという考えにはまり込んだ。海洋病院のような建物が議論に火をつけ、連邦政府はサウスカロライナの政府、社会、経済に関わるべきだということになった。この時期の連邦政府収入予算の90%以上は輸入品に掛かる関税であり、チャールストンにもある税関が集めていた。1832年、サウスカロライナ議会は、そのころに発効した関税法を対象として、州が連邦法を無効にできるという無効化条例を可決した。直ぐに連邦軍の兵士がチャールストンの砦に派遣され、軍の手で関税を集め始めた(無効化の危機)。この時は、関税が徐々に減らされるという妥協が成立したが、州の権限に関する議論は次の数十年間に高まり続けた。チャールストンは依然としてその地方で最も繁華な港であった。1849年、さらに新しく大きな政府の税関の建設が始まったが、南北戦争によって中断された。 1860年の大統領選挙に先立ち、民主党の会合がチャールストンで開催された。ハイバーニアン会館はスティーブン・ダグラスを支持する代議員の本部となった。ダグラスは拡大する奴隷制度問題について北部と南部の橋渡しをする者として期待されていた。この会合ではどの候補者も3分の2以上の多数の支持を集めることができないまま散会した。この不和が民主党内に亀裂を生み、共和党の候補エイブラハム・リンカーンが選ばれることになった。
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