南北戦争前
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「ドロシア・ディックス」の記事における「南北戦争前」の解説
この時代において、精神病患者の治療を改革する運動は奴隷制度廃止運動、禁酒運動、選挙改革など他の先進的な大義と結びついたものであった。アメリカに帰国後、1840年から1841年まで、ディックスはマサチューセッツ州全土で困窮した精神病患者のケアについての調査を行った。ほとんどのケースでは、町が地元の住民と契約し、自分で生活することができず、世話してくれる家族や友人もいない精神病患者のケアをまかせていた。規定も資金援助もないため、このシステムのせいで広く虐待が見られるようになっていた。ディックスは調査結果を激烈なレポート『陳情書』(Memorial)として公刊し、精神病患者に加えられている虐待の実態の様子をマサチューセッツ州議会に報告した。ディックスのロビー活動はウースターにある州の精神病院を拡大させる法案につながった。 1844年にディックスは同様の調査のため、ニュージャージー州にあるすべての郡を訪問し、刑務所や救貧院を調査した。自らの観察と事実を詳述した陳情書をニュージャージー州議会に提出するために準備した。ディックスは精神病患者のケアと治療の施設を建設するために州議会が行動を起こし、資金を充当するよう緊急アピールを行った。ディックスはこうした不運な人々に対して州が責任を負っていることを強調すべく、陳情書で多数のケースに触れている。 ディックスは、議員及び法律家として尊敬されていたが老年にさしかかってから困難に直面し、精神の病にかかった男性の例をあげている。ディックスは必要とされる治療や世話を受けることができないまま、郡の救貧院の地下室にある小さなベッドに寝ているこの男性を発見した。州議会の多数の議員が、この貧困に陥った法律家のかつての様子を知っていた。1845年1月23日、ジョゼフ・S・ドッドが州議会上院にディックスの報告書を提出した。 ドッドが提出した、精神病院を認可するための決議は翌日議会を通過した。委員会が2月25日にレポートを作成し、ニュージャージー州議会にすぐさま行動を起こすよう訴えた。これを支えるために必要な税金のせいで、隠密にこの案に反対する政治家もいた。ディックスはロビー活動を続け、支援を募るため手紙や論説を書いた。会期中にディックスは議員たちに面会し、夜は家で会合を開いた。認可法案は1845年3月14日に最終審議のため取り上げられ、3月25日に州立施設を設立する法案が通過した。 ディックスはニューハンプシャー州からルイジアナ州まで旅をして困窮した精神病患者の現状を記録し、州議会に提出するレポートを作成し、権限賦与のための法案や必要な予算案を書くため委員会と協働した。1846年ディックスは精神疾患について学ぶためイリノイ州に旅したが、ここで病気になってしまい、回復のためスプリングフィールドで冬を過ごした。ディックスは1847年1月に州議会に報告書を提出し、この会期中にイリノイ州で最初の精神病院を設立する法案が採択された。 1848年にディックスはノースカロライナ州を訪れ、ここでも精神病患者のケア改革を求めた。1849年にノースカロライナ州医学協会が設立され、州議会は州都ローリーに精神病患者のケアのための施設を建設する認可を出した。ディックスに敬意を表して命名されたドロシア・ディックス病院が1856年に開院した。精神病患者のための2つ目の州立病院が1875年に認可され、モーガントンにブロートン州立病院が開院した。最後に、この州では人種隔離が行われていたため、ピードモント地域にアフリカ系の精神病患者を対象とするゴールズボロ病院が設立された。ディックスには偏見があり、精神病はマイノリティではなく、教育のある白人の現状に関連して発生するのではないかと考えていた。 ディックスはペンシルベニア州最初の公立精神病院であるハリスバーグ州立病院の設立にも協力した。1853年にディックスはこの病院の図書室と読書室を作った。 ディックスは1853年に精神病患者のケアを調査するため英国の植民地であったノヴァスコシアを訪問した。旅行中に離島であるセーブル島に赴いて、精神病患者が見捨てられていることについて調査報告を書いた。この報告はあまり根拠があるとは言えないものであった。セーブル島にいる間ディックスは難破の救助活動を手伝った。ボストンに帰ると、ディックスはセーブル島に高品質な人命救助用具を送るためのキャンペーンを実施し、これはうまくいった。 ディックスが手がけた最も大きな仕事は貧困精神障害者福祉法案であり、これは合衆国の所有地を精神病患者や障害者の利益のために使用できるという法案であった。土地売却による収益は精神病院の建設・維持のために州に配分される。ディックスの土地法案はアメリカ合衆国議会の両院を通過したが、1854年、社会福祉は州の責任事項であるとしてフランクリン・ピアース大統領が拒否権を発動した。自らの土地法が通過しなかったことに傷つき、ディックは1854年から1855年にかけてイングランドヨーロッパを旅行した。ディックスはラスボーン一族と旧交をあたため、スコットランドの精神病患者収容施設を調査した。この調査により、改革を監督するためにスコットランド精神疾患委員会が設立された。
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南北戦争前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 00:11 UTC 版)
「オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道」の記事における「南北戦争前」の解説
1848年5月28日、バージニア議会(Virginia General Assembly)はオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道に対し、アレクサンドリアからゴードンスヴィルまでの鉄道建設許可を与えた。工事は1850年に開始され、1854年に完成した。オレンジ郡において、O&Aはバージニア・セントラル鉄道に連結した。 同じ1854年、O&Aはバージニア議会よりシャーロッツヴィルからリンチバーグまでの路線延長許可を得、工事は1860年に完成した。ゴードンスヴィルからシャーロッツヴィルまでバージニア・セントラル鉄道の路線を経由しての直通運転が行われた。リンチバーグでは、バージニア・アンド・テネシー鉄道(Virginia and Tennessee Railroad)およびサウスサイド鉄道と直結した。この2本の鉄道と、マナサス・ジャンクション(現在のマナサス)でシェナンドー渓谷に向かうマナサスギャップ鉄道と連絡したことで、O&Aは大きな利益を得た。 鉄道はバージニア州の経済に大いに貢献した。農家は互いに連結した鉄道網を使用して、産品を以前より安く出荷できた。アレクサンドリアは盛況な港湾・工業都市となった。ワシントンからリンチバーグまでの旅は、鉄道完成以前には3日間要していたが、これが旅客列車では8時間に短縮された。
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南北戦争前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 09:23 UTC 版)
綿花が「キング・コットン」と呼ばれた1850年代、ミシシッピ州のプランテーション所有者、特に昔からのナチェズ地区の所有者は、新しく勃興したミシシッピ・デルタ地域やブラックベルト地域の所有者と共に、肥沃な土地と、国際市場での綿花の高値のために著しく富かになっていき、後にはドッケリーファームのような綿農園が生まれた。激しい富の不均衡とそのような収入を支える大規模な黒人人口の必要性は、州の政治と、合衆国からの脱退への支持において重要な役割を演じた。 1860年までに奴隷人口は436,631人、州内人口791,305人の55%だった。有色人種の自由人口は1,000人に満たず、大半はナチェズとその周辺に住んでいた。南北戦争前の人口が比較的少ないのは、州の大半がまだ荒野であり、開発のための開拓者がまだ足りていなかったためである。川沿いの開拓地やプランテーションを除き、ミシシッピ・デルタの低地は未開発であり、群生林や湿地で覆われていた。
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