禁酒運動とは? わかりやすく解説

禁酒運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/11 12:32 UTC 版)

禁酒運動(きんしゅうんどう、英語: temperance movement)は、共同体内部あるいは社会全体で、「の消費量を減らそう、あるいは無くそう」という運動である。酒類の生産と消費そのものを全面的に禁じようとする場合もある。

禁酒運動の動機は運動により様々であり、政治的理由や宗教的理由などが考えられる。政治的理由としてはアルコールによる健康への害を減らそうというもの、人心や家庭や社会の荒廃を防ごうとするもの(特に社会改良社会福祉の一環として、労働者や農民などの階層で起こる様々な問題をアルコールによるものとみて禁酒を呼び掛けるもの)、家庭や社会の無駄な出費を減らそうというものがあり、一方ではキリスト教イスラム教など宗教上の信念に基づくものがある。

欧米の禁酒運動

19世紀末から20世紀前半にかけては、欧米諸国で社会改善運動や道徳立て直し運動が起こると同時に、禁酒運動も盛り上がりを見せた。ヨーロッパでは1829年アイルランドで禁酒運動団体が発足し、1830年代にはスカンジナビア諸国、スコットランドイングランドでも団体が発足した。英国では1835年に「全国絶対禁酒教会」が発足、プロテスタント教会が集会を開き、アルコールの代替として紅茶を勧め、紅茶が広まった[1]。19世紀後半にはスイスやドイツ、フランス、ロシアなどでもキリスト教の教職者らによる禁酒団体が成立している。アメリカの13植民地の一つ、ペンシルベニア植民地では、1733年4月24日ショーニー族の"ショーニー・インディアン"という団体による禁酒運動が起きた。これはアメリカで初めて禁酒運動を起こした団体であり、彼らは総督であるパトリック・ゴードン英語版に、町にラム酒の樽を持ち込ませる事を禁止する様要請した。その結果、ペンシルベニア植民地評議会でこの要請は受け入れられ、4年間の飲酒は禁止となった。また、30ガロン以上のラム酒を町に持ち込んだ場合、相手が白人だろうとインディアンだろうと関係なくラム酒の樽に穴を空けそれを押収する、という結論に至った[2]アメリカ合衆国では1869年に政党として禁酒党Prohibition Party)が結成され、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず度々20万票台を集めている。1873年にはキリスト教婦人矯風会(Woman's Christian Temperance Union)が発足し翌年には全国的に活動を始め、キャリー・ネイションら熱心な活動家が現われた。

ロシアの禁酒運動

ウォッカ大国であるロシアでも、帝政時代から禁酒運動は展開されていた。

14世紀頃にロシアに伝わった蒸留酒が源流となるウォッカは、19世紀になって貨幣経済の浸透や流通網の拡大などによって農村部に浸透する[3]と農民の飲酒が増えた。それと同時に「飲酒は祝祭時にするもの」という慣習が崩れ、アルコールへの依存が問題となった。しかし、当時ウォッカをはじめとする酒類は国の専売制だったことから、政府は税収による経済的利益を優先した。こうした酒専売制度やアルコール依存への無策に対する抗議から、1837年から1839年にかけてバルト海沿岸で禁酒運動が発生[4]。さらに、クリミア戦争での戦費獲得のため酒税を引き上げられたことによって、禁酒運動は広がりを見せ、1859年にはコヴノ県(現・リトアニア)でカトリックの農民たちによる禁酒協会が結成された[4]。その後、帝政ロシアにおける禁酒運動はヨーロッパやアメリカの運動とも連動して、1900年代にピークを迎えた[5]

ソビエト連邦時代末期の1980年代にユーリ・アンドロポフが「労働生産性向上」のために、ミハイル・ゴルバチョフは「ペレストロイカ」の一環として、禁酒運動を指導した。特にゴルバチョフは「しらふが正常」を合言葉に禁酒運動を展開したが、結局はウォッカの密造酒作りにソ連国民を駆り立て、酒税収入が激減。ソビエト連邦の崩壊のきっかけの一つになってしまった。ただし、ロシアにおける禁酒運動は完全な禁酒ではなく、過度の飲酒を戒めて「適度な飲酒」を呼び掛けるものであった[6]

日本の禁酒運動

高嶋米峰の呼びかけにより結成された東洋大学排酒同盟[7]

日本では明治6年(1873年)に、イギリス公使のハリー・パークスが後援して、外国船員禁酒会が横浜に組織された。これに刺激されて明治8年(1875年)に、奥野昌綱らによって日本初の横浜禁酒会が組織された。その後、前述のアメリカのキリスト教婦人団体の日本支部として1886年に東京婦人矯風会が結成され、1893年に全国組織の日本キリスト教婦人矯風会となり、広範囲な禁酒運動が始まった。ハワイ国の初代総領事だった外交官の安藤太郎が帰国し、横浜禁酒会と合流して明治23年(1890年)に東京禁酒会が発足した。第二次大戦後、日本禁酒同盟と改名し[8]、矯風会同様、現在も運動を続けている。[9]

公衆衛生

19世紀末には公衆衛生の立場からアルコール中毒による健康への害を防ぐために酒類の生産・消費の禁止を訴える運動も起きた。1900年代からは優生学の一環としての禁酒運動も出現し、これはナチスによる優生学・民族衛生・禁煙禁酒運動へとつながっている。

立法措置

20世紀前半には各国で禁酒令が打ち出されているが、特に1920年代アメリカ合衆国における禁酒法憲法修正第18条ボルステッド法)は名高い。

脚注

  1. ^ 『紅茶の事典』柴田書店
  2. ^ 著者:トーマス・W.アルフォード 訳者:中田佳昭、村田信行 「インディアンの「文明化」 ショーニー族の物語」刀水書房 2018年12月7日初版1刷印刷 6章 「部族の政治と組織」62,63頁より引用
  3. ^ R.E.F.スミス, D.クリスチャン『パンと塩 : ロシア食生活の社会経済史』鈴木健夫, 豊川浩一, 斎藤君子, 田辺三千広訳、平凡社、1995年、419-423頁。ISBN 4582473431 
  4. ^ a b 森永貴子 2019, p. 648.
  5. ^ 森永貴子 2019, p. 639.
  6. ^ 米原万里:ロシアは今日も荒れ模様
  7. ^ 東洋大学創立百年史編纂委員会・東洋大学井上円了記念学術センター 『東洋大学百年史』 通史編Ⅰ、学校法人東洋大学、1993年、951-953頁
  8. ^ 日本禁酒同盟のあゆみ 一般財団法人 日本禁酒同盟
  9. ^ 一般財団法人 日本禁酒同盟

参考文献

  • 『日本キリスト教婦人矯風会百年史』日本キリスト教婦人矯風会編、ドメス出版、1987年
  • 『婦人新報』日本キリスト教婦人矯風会編、不二出版、1985-1986年 (1895年~1958年分の機関誌復刻)
  • 森永貴子「ロシア帝政末期の茶と社会運動」『立命館文學』661(小田内隆教授退職記念論集)、立命館大学人文学会、2019年3月、633-654頁、CRID 1520009408997035904NAID 40021896654 

関連項目

歴史
飲酒による負の作用
その他の社会的動向

外部リンク


禁酒運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/07 07:08 UTC 版)

イザベラ・サマセット」の記事における「禁酒運動」の解説

レディ・イザベラは親友急性アルコール中毒による譫妄起こして自殺したことをきっかけに禁酒運動に目覚めた。その雄弁さと押し強さから、彼女は1890年大英帝国婦人禁酒協会英語版)(BWTA)会長就任する翌年レディ・イザベラはアメリカ合衆国へ視察旅行出向き世界婦人キリスト教禁酒協会(WWCTU)(英語版会長フランシス・ウィラード会談しボストン開催されたWWCTUの会議演説行ったウィラードその後まもなくレディ・イザベラをWWCTU副会長選任し複数イギリス側組織訪問した。レディ・イザベラのBWTA会長在任中、組織急成長大きな政治的社会的影響力を持つようになった。彼女は自由党政治家たち、ロバーツ英語版元帥ウィリアム・ブースらと連携した。レディ・イザベラはバース・コントロール啓発努めた1895年、彼女は「道徳的な罪は望まない子供と共に生じる」と唱えた1897年までに、国教会高位聖職者ベイジル・ウィルバーフォース(英語版)との友人関係のおかげもあり、彼女はアングリカン教会帰順した。 彼女の反対者たちはBWTAにウィラード大きな影響力持ちすぎていると主張した。レディ・イザベラはBWTAを婦人参政権運動組織変えるつもりは無いと言明したものの、彼女とウィラードおおっぴらに婦人解放訴えていた。レディ・イザベラは1894年から1899年にかけてフェミニスト週刊誌『ザ・ウーマンズ・シグナル(The Woman's Signal)』を編集していた。彼女は自分率い組織求心力高めよう野心的な行動出たインド駐留するイギリス人兵士の間での性感染症蔓延を防ぐ手段として、インド人女性による売春英語版)の公営化を支持したのである。この考え方当時貴族階級広がっていたものだが、この主張をしたことで彼女はBWTAの多く会員支持を失う結果となった。ジョゼフィーン・バトラー(英語版)との論争ののち、レディ・イザベラは1898年組織の分裂を防ぐために自身主張撤回することを余儀なくされた。1898年ウィラード死後にはWWCTU会長職を引き継ぎ1906年まで務め1903年最後合衆国訪問行った。レディ・イザベラは省庁行政運営コーポラティズム色の強い北欧モデル導入することを支持した際、BWTA会員から再び強い批判さらされ、ついに会長職を退任したカーライル伯爵夫人英語版)が後任会長選出された。

※この「禁酒運動」の解説は、「イザベラ・サマセット」の解説の一部です。
「禁酒運動」を含む「イザベラ・サマセット」の記事については、「イザベラ・サマセット」の概要を参照ください。

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