婦人矯風運動
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一方、恵まれなかった結婚生活や小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は婦人矯風運動(禁酒運動)に率先して参加するようになる。明治19年(1886年)米国の禁酒運動家メアリー・レビット夫人来日を期に、東京キリスト教婦人矯風会を組織、初代会長に就く。翌年には「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。明治26年(1893年)楫子60歳のとき矯風会の全国組織を結成、日本キリスト教婦人矯風会会頭となった。姉の徳富久子は妹楫子の始めた矯風会の活動に積極的に参加し、これを支えている。また久子の孫であり、蘇峰・蘆花の姪の久布白落実は楫子の遺志を継ぎ矯風会活動に生涯を尽くすこととなる。 矯風事業に尽くす楫子の情熱は日本に止まらず日本国外にも向かい、明治39年(1906年)、74歳にして渡米、万国矯風会第7回大会に出席、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職は大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動、公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年(1925年)6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治、大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。
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