婦女子の教養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 03:18 UTC 版)
身分的には武士でありながら、生活実態から武士の心を失っていく士族に対し、逆に士族意識を固めたのが、原方衆の妻女らであった。夫とともに農耕に従事するも、妻女たちももとは越後時代の名将の血筋にあたる身分の高い者も多く、お家再興にかける武士道精神は婦女子にも育まれていた。 そのような士族の妻の教養のひとつに、裁縫の技量があげられる。1646年(正保3年)に杉田勘兵衛が女の心得を著した『めのとさうし』では、武士の妻は、いざという時、夫が馬の背に鞍を着ける数分の間に裃の一着を縫い上げるくらいできなくては武士の妻たる資格なし、と、裁縫の技量と速さを問うているように、代々武家の間では婦女子にきびしく裁縫を躾けた。原方衆の妻女は、士族の妻ならではのその技量を、どの家でも座敷にあがる際に必ず用いる、足を拭うための雑巾に縫い表し、本来の身分の誇りと技術を表出させた。これが、雑巾という用途にそぐわない華やかさから「花ぞうきん」とよばれる原方刺し子である。 米沢藩は、4代目綱勝の死後の減俸や度々の飢饉を乗り越えるため、藩として幾度か大きな倹約令を敷いた。衣類については、合羽を着ること、風呂敷を持つことを禁じ、老人以外は足袋を履くことや塗り下駄も贅沢品とみなされ、禁じられた。このため、人々は家にあがる際には門前の川を石を置いて堰き止め、雑木の下駄ごと足を洗う習慣があった。どの家の戸口にも、濡れた足を拭うための雑巾が置かれていて、家人も客人も、家にあがる誰もが必ず目にするそれに、武士の身分を誇示したものである。 妻女らは上杉氏一門独自の図柄を考案し、区画を割ったその中に、多様な刺し文を縫い入れ、その種類の多さを競った。数十、数百もの刺し文技術を知るということは、その妻女は十二単衣も縫えるだけの技量をもつことを意味し、それを誇示したものと考えられている。
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