原方衆(米沢藩)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:54 UTC 版)
米沢藩上杉家は豊臣政権下では120万石の大大名であったが、関ヶ原の戦いの後30万石に減封された。しかし、家臣の召し放ちを行わなかったことから財政が逼迫した。更に1664年(寛文4年)には、3代藩主上杉綱勝が嫡子なく急死した。本来なら改易になるところを、吉良義央の子綱憲を末期養子に迎えることが特別に許されたが、更に石高を半分の15万石とされた。石高が半減したのに、また家臣の召し放ちを行わなかったため、没収された福島城に詰めていた下級藩士には知行を全く、または家計を維持できない程度しか与えられない代わり、米沢城城下の郊外に、屋敷の他に農地が当てられた。彼らは普段は農地の経営に専念でき、臨時の軍役にのみ従事すればよいとされた。このような下級武士を原方衆と呼んだ。なお、幕府に提出する城絵図には原方衆が居住する地域も侍町と明記されている。 宝暦5年(1755年)の、地方の百姓による城下豪商宅の打ち壊し事件の首謀者は原方衆であった。
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