原方衆の誕生とは? わかりやすく解説

原方衆の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 03:18 UTC 版)

原方刺し子」の記事における「原方衆の誕生」の解説

1601年慶長6年)、関ヶ原の戦い敗戦した西軍関与していた上杉景勝は、会津若松120万石拠点から、6,000余り家臣とともに米沢藩30万石減封された。当時米沢800程度からなる田舎であり、家臣直江兼続中心となって城下町構築したものの、すべての家臣城下収容することは不可能だった。そのため、下級武士郷士となり、1609年慶長14年)頃までに、南原花沢等町の四方原野聚落築いて住まうことを余儀なくされた。これら下級武士は「原方衆(原方奉分人)」とよばれ、会津から移住した武士の3分の1、約8,000人が原方衆となった原方衆は、平時荒野開拓して作物育て農民さながら暮らし送りつつ、月に2回米沢城出勤して武芸練り、城の防衛河川の氾濫街道防備にあたる屯田兵となって食い扶持稼いだこのような郷士聚落の例は全国的にも稀であり、薩摩藩の麓聚落のみが他に知られている。 1664年寛文4年)、4代目の上綱勝が世継ぎ残さず急死すると、米沢藩お家断絶免れるため、会津藩の祖である保科正之仲介により吉良義央の子養子迎える。所領15万石半減して藩財政はますます困窮し城下家臣俸禄半減したこのため士族のなかではその身分商家売り払うことが流行し圧政に耐えかねた農民の間には逃亡間引き増加したさらには1720年享保5年)の凶作1755年宝暦5年)から3年続いた大凶作が、藩財政甚大な影響及ぼした下級士族大半が町民や農民身を落とし名ばかり士族増えると、士族意識低下した米沢藩文武両道の子教育に熱心であり、藩内に7カ所の武芸所を設け子弟厳しく武芸伝え武士道説いていた。武士道とは、武芸によって功名立てて子孫繁栄図り家名家柄尊び主君忠義尽くして出世することを人生目標したものであり、身分下がった場合家運再興のために名誉回復を図ることを士族嗜みしたものである。しかし、経済的理由によりそれまで蔑視してきた農工商の位置に自ら身を落とすこととなった下級武士たちは、士族権威失墜し体面を保つことも難しくなってゆくと、精神的な支えであった武士道失われていった

※この「原方衆の誕生」の解説は、「原方刺し子」の解説の一部です。
「原方衆の誕生」を含む「原方刺し子」の記事については、「原方刺し子」の概要を参照ください。

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