原方衆の誕生
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1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで敗戦した西軍に関与していた上杉景勝は、会津若松120万石の拠点から、6,000人余りの家臣とともに米沢藩30万石に減封された。当時の米沢は800戸程度からなる田舎であり、家臣の直江兼続が中心となって城下町を構築したものの、すべての家臣を城下に収容することは不可能だった。そのため、下級武士は郷士となり、1609年(慶長14年)頃までに、南原や花沢等町の四方の原野に聚落を築いて住まうことを余儀なくされた。これら下級武士は「原方衆(原方奉分人)」とよばれ、会津から移住した武士の約3分の1、約8,000人が原方衆となった。 原方衆は、平時は荒野を開拓して作物を育てる農民さながらの暮らしを送りつつ、月に2回米沢城に出勤して武芸を練り、城の防衛や河川の氾濫や街道の防備にあたる屯田兵となって食い扶持を稼いだ。このような郷士聚落の例は全国的にも稀であり、薩摩藩の麓聚落のみが他に知られている。 1664年(寛文4年)、4代目の上杉綱勝が世継ぎを残さず急死すると、米沢藩はお家断絶を免れるため、会津藩の祖である保科正之の仲介により吉良義央の子を養子に迎える。所領は15万石に半減して藩財政はますます困窮し、城下の家臣の俸禄も半減した。このため、士族のなかではその身分を商家に売り払うことが流行し、圧政に耐えかねた農民の間には逃亡や間引きが増加した。さらには1720年(享保5年)の凶作、1755年(宝暦5年)から3年間続いた大凶作が、藩財政に甚大な影響を及ぼした。下級士族の大半が町民や農民に身を落とし、名ばかりの士族が増えると、士族意識も低下した。 米沢藩は文武両道の子弟教育に熱心であり、藩内に7カ所の武芸所を設け、子弟に厳しく武芸を伝え、武士道を説いていた。武士道とは、武芸によって功名を立てて子孫繁栄を図り、家名や家柄を尊び、主君に忠義を尽くして出世することを人生の目標としたものであり、身分が下がった場合も家運再興のために名誉回復を図ることを士族の嗜みとしたものである。しかし、経済的理由によりそれまで蔑視してきた農工商の位置に自ら身を落とすこととなった下級武士たちは、士族の権威が失墜して体面を保つことも難しくなってゆくと、精神的な支えであった武士道も失われていった。
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