原方衆のくらし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 03:18 UTC 版)
上杉氏は原方衆に対し、総面積150坪(約495平方メートル)の屋敷を与えた が、裏半分は野菜畑とし、自給自足の生活を余儀なくされた。間口は身分に応じて6間(約11メートル)から8間、奥行は約25間と定められていたが、屋敷に続く土地は開墾した者の所有にするとして、荒野の開拓を促した。新たに開拓した土地は、土を深く耕す必要がある牛蒡の栽培を義務付け、農地への改良を図った。米沢藩は農政を土台としており、原方衆は土地の効率的な利用と税収を見込んでの施政下にあった。 敷地裏の北側には薬草を植え、周囲はウコギの生垣で覆われた。ウコギは、若芽が食用になり、茶の代替品とも薬用にもされた。縁起物の植物である牡丹や南天は、農耕用の土に植えるのはもったいないとして、藩の指示で、雨のあたらない縁の下に植えられた。 台所の下は池に続いており、残飯で鯉を飼った。子どもが生まれると、米沢藩はクルミやクリなどの実の生る木を藩の「祝い木」として与えた。門前の掘立川べりに植えることとされた「祝い木」から川に落ちる実は、「藩栗」「藩クルミ」として家老の屋敷の池に流れて集められるようになっていた。原方衆が家にあがるたびに足を洗った屋敷門前の掘立て川は、20世紀に入っても側溝として残り、漬菜などの収穫物を洗う習慣があった。下り口には、足を洗う水を溜めるべく、川を堰き止めるために使われた石が1つずつ残る。 当時、領地高に見合わない家臣を保持した米沢藩の藩財政は困窮し、城下の武士も、粥を食し、紙の布団で寝る暮らしを強いられた。原方衆の暮らしぶりも、鶏の鶏冠も凍る極寒の冬でも藁のなかに裸で潜り、あるいは筵を被って箱で寝るなど悲惨を極めたが、城下に残った下級武士に比べると、藩の普請に動員されることが多く、開墾によって得た農地を有する点で、やがて生活水準は城下の下級武士を上回った。そのため、『城下のお粥っ腹、原方の糞つかみ』と罵られることもあった。
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