生活実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
唐代も他時代と同様、階層により、生活実態に多くの差があった。 五品より上の官僚である勅任官の特権が大きく、彼らの生活は豊かなもので、長安の里坊の4分の1を占める邸宅も存在した。また、彼らの母や正妻は外命婦制度により、封号を与えられた。彼らの生活は豊かなもので、妻女も家事を行う必要がなく、歌舞音曲や化粧、豪華な装飾品を買う余裕があった。彼らのほとんどが多くの妻妾を持った。また、貴族出身である場合、ほとんどが先祖伝来の荘園を所有していた。 九品から六品までの認証官は、周りを塀に囲まれた四合院の邸宅に住むことが多かった。彼らの生活に余裕はなく、貧困に陥る者もいて、多くは昇進を望んでいた。彼らの妻女は、機織りなどを行い、家事をすることもあった。 九品に入らない流外官と呼ばれる官吏は、胥吏とも呼ばれる存在であった。土着の人が選ばれ、地方政治の実情を把握し、現地のものとの関係も深かった。地方に赴任する官僚より、胥吏が実務を握っていることも多かった。彼らの多くは豪族や新興地主の血縁者であり、公課などの免除がないにも関わらず、負担を拒否することもあった。豪族の住居は庭が広い四合院であることが多かった。彼らの妻女は家事の負担も軽かった。 農民については、敦煌文書や唐詩などで確認できる。敦煌では、社という地縁を中心とした共同体を組み、各自社人として、仏事と葬儀の援助、宴会などの相互補助を行った。社は、社長・社官・録事を長とし、事業の度に労力や酒・粟・油などを提供するため、負担が重かった。遅れた場合や退会した場合は、杖で打ったり、宴席を設けるなどの罰則が行われた。そのため、貧困者は社人になることはできず、罰則にも関わらず退会を願い出るものもいた。社には、官吏が入ってくる場合もあった。敦煌での生活は厳しく、徴兵や多くの負担が存在し、逃戸や子供の人身売買などが行われていた。貧民が税の催促の際に、里正や村頭から暴力を受けた記録もある。 全国的にいえば、農民の家では男性は耕作を行い、女性は織り物を行うのが一般的であった。妻女たちは家事と養蚕、紡績の仕事に明け暮れた。租税を納めた上で、貧困層は落ち穂を拾って飢えをしのいだ。休耕の時も男女ともに日雇いに出て、老人になるまで働いた。南方の農民は比較的、負担が軽かった。農民は兵役もあり、女性が耕作を行うこともあった。 職人については、世襲であり、転業も許されなかった。手工業にも行は多数存在し、行頭は行の人に政府の用役を供し、役所との間をつないだ。一般の手工業者と、農業兼業の手工業者は国家の労役に服さねばならず、小商人より地位が低かった。紡績と専業とする女性には、生涯結婚できないものもいた。 商人については、富裕な者は王侯貴族を超えて、住居も豪邸であることが多かった。商人は交易のために移動し、数年は家を空け、事故に遭い消息を絶つものが相当数いた。また、交易先に移住するものもいた。商業は店舗を構えた所で、女性が主人となり、行うこともあった。貧しい商人は行商人が多く、移動の危険が大きかった。 家族の規模は5~7人程度が平均的で、庶民階層は子供を複数養う余裕がある家が少なかった。また、三世代同居は、庶民階級に多かった。 庶民の家でも、私賤人である僕や奴・婢を使うことは一般的であった。私賤人たちは主に生産労働に従事し、女性の私賤人には家事労働を行うものもいた。私賤人たちの結婚は主人によって決められた。
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