南北戦争以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:56 UTC 版)
南北戦争の後の1866年、連邦政府は新しい条約を部族に強制した。インディアン準州の中部と西部の大部分の土地が政府に割譲された。土地の一部は他の部族に与えられたが、中央部分、いわゆるUnassigned Lands(未割当地)は政府のものとして残った。また別の譲歩によって、インディアンの土地に鉄道を交差することを許した。1862年、スタンド・ワティは「南部チェロキーネーション」の酋長に選出された。さらに奴隷制の慣習は違法とされた。一部のネーションは人種的に、または彼らの奴隷と統合されたのだが、他のネーションは元奴隷に対して非常に敵対的であったので、元奴隷を領土から追放することを望んだ。 1870年代には、1862年のホームステッド法の下で、インディアン準州の政府の土地への入植を望む人々の動きが起こった。彼らは未割当地をオクラホマと呼び、自分たちをブーマー(Boomer)と呼んだ。1871年のワティの死後、南部チェロキー・ネーションはケンタッキーへと移動させられた。1880年代、州の非常にまばらな人口のパンハンドル地域への初期の入植者たちは、シマロン準州を作ろうとしたが、連邦政府に対して訴訟で敗北した。このことは、テキサス州パリス(w:Paris, Texas)の裁判官によって、エリアへの呼び名を何気なく作ることを促した。「この土地は誰にも所有されていない」と裁判官は言い、この後にパンハンドルは数十年後に州制になるまで、誰もいない土地、ノーマンズランド(No Man's Land)と呼ばれた。 1884年、合衆国対ペインの裁判で、カンザス州トピカの合衆国地方裁判所は、1866年の条約の下でインディアンから政府に割譲された土地への入植は犯罪ではないと裁決した。政府は当初抵抗したが、議会はすぐに入植を認可する法を制定した。 議会は1887年にドーズ法(あるいはインディアン一般土地割当法)を可決し、政府にインディアンの土地を個人の所有地へ分割するため、部族との合意を交渉するよう求めた。この分割制度の下、残された部族の土地は非インディアンの入植のために調査をされることになった。入植の後、多くの白人たちは、土地紛争で元奴隷への優遇を与える共和党の職員を起訴した。
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