南北戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 15:44 UTC 版)
「フランクリン・ブキャナン」の記事における「南北戦争まで」の解説
医師であった父ジョージ・ブキャナンと母レティシア・マッキーン・ブキャナンの三男(第五子)として、メリーランド州バルチモアに生まれた。ブキャナン家はスコットランドからの移民であった。1815年に士官候補生(Midshipman)となり、1825年に大尉、1841年に中佐、1855年には大佐に昇進している(当時のアメリカ海軍は、正規の尉官は大尉のみ、佐官は2階級で1862年まで海軍に将官(提督)は設置されていない)。 合衆国海軍に45年間奉職したが、全世界で海上勤務についている。1840年代の軍用スループ・ヴィンセンス、同ジャーマンタウンの指揮に始まり、1850年代には蒸気フリゲートサスケハナの艦長として、ペリー代将の日本遠征に加わった。 1845年から1847年までアメリカ合衆国海軍兵学校の初代校長を務め(正規の階級は中佐であるが、一時的に代将となっている)、その後米墨戦争に参加した。1859年から1861年までは、ワシントン海軍工廠の最高責任者であった。南北戦争が近いの噂が流れ始めると、ブキャナンは故郷であるメリーランドがアメリカ合衆国から分離すると予測し、海軍に辞表を出した。しかしながら結局メリーランドは合衆国に留まったため、ブキャナンは辞表を撤回しようとしたが、海軍長官のギデオン・ウェルズは忠誠心の確認できない軍人は不要として、辞表の撤回を認めなかった。
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