南北戦争の時のパデューカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/10 16:35 UTC 版)
「パデューカ (ケンタッキー州)」の記事における「南北戦争の時のパデューカ」の解説
南北戦争中の1861年9月6日、ユリシーズ・グラント将軍が指揮する北軍がパデューカを占領し、北軍はテネシー川河口を支配することになった。この戦争の大半の期間を通じて、北軍スティーブン・G・ヒックス大佐がパデューカと大規模な補給基地、およびオハイオ川とミシシッピ川、テネシー川の北軍を支援する砲艦と補給船のためのドック設備の管理にあたった。 1862年12月17日、一般命令第11号の条項により、すべて昔からの住人だったユダヤ人30家族がその家を逐われた。著名な地元のユダヤ人実業家、シーザー・カスケルがエイブラハム・リンカーン大統領に電報を打った後に会見し、最終的にはこの命令を撤回させることに成功した。 1864年3月25日、南軍のネイサン・ベッドフォード・フォレスト将軍が、ミシシッピ州から西テネシー州やケンタッキー州に入る北行作戦の一部としてパデューカを襲った。この作戦はこの地域にいる南軍親派を徴兵し、弾薬、医薬品、馬とロバを補給して、オハイオ川から南の地域の北軍支配を全体に揺るがそうというものだった。この襲撃は再補給という意味では成功し、北軍を怯えさせたが、フォレストは南に帰った。 フォレストは次のように報告した。 私は敵をその砲艦や砦に追い込んだ。町は10時間保持し、多くの物資や馬を確保した。60樽の綿花、蒸気船1隻および乾ドックを燃やし、50人の捕虜を捕まえて連行した。 後にフォレストは新聞で140頭の優れた馬が襲撃を免れたことを読み、馬を捕まえさせ、フォレストがピロー砦を攻撃する間に、北軍を慌てさせるためにエイブラハム・ビュフォード准将をパデューカに戻した。 1864年4月14日、ビュフォード隊は新聞に報告されていた通り、鋳造工場に隠されていた馬を見つけた。ビュフォードは戦利品と共にフォレスト本隊に合流し、パデューカは終戦まで北軍支配のままとなった。
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