ピロー砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:10 UTC 版)
「ネイサン・ベッドフォード・フォレスト」の記事における「ピロー砦」の解説
詳細は「ピロー砦の戦い」を参照 1864年4月12日、フォレスト将軍はその部隊を率いてミシシッピ川沿いテネシー州ヘニングのピロー砦を攻撃し占領した。ピロー砦の戦いは、降伏したアフリカ系アメリカ人の北軍兵士の虐殺を、フォレストが指示したか、あるいは黙認したかについて大きな議論となった(#ピロー砦事件|後述)。 フォレストの部下は、北軍兵が武器を持ったまま逃亡し、逃げながら銃撃してきたので、南軍兵は防衛のために射撃せざるを得なかったと主張した。北軍の軍旗は依然として砦の上に翻っており、そのことはその部隊が正式には降伏していなかったことを示していた。当時の新聞に載ったテネシー州ジャクソンの者の証言は、「フォレスト将軍が彼等に降伏を懇願した」が、「降伏の最初の兆候も示されてはいなかった」としていた。同様な証言が当時の多くの南部の新聞紙上で報じられた。 しかし、これらの虐殺否定証言は、現場に居た南軍兵士の手紙にあった証言とは食い違っていた。第20テネシー騎兵隊の兵士アキレス・クラークは、戦闘後直ぐに妹に当てた手紙で次のように書いていた。 「 大虐殺は恐ろしかった。言葉ではその場の情景を言い表せない。みすぼらしい騙された黒人が我々の部隊のところに走ってきて跪き、両手を挙げて慈悲を乞うたが、立ち上がるように命令され、続いて撃たれた。私は他の数人と共に虐殺を止めさせようとした。一度は部分的に成功したがフォレスト将軍が犬の様に撃ち殺すことを命令し、大虐殺が続いた。最終的に我が軍の兵士が血に酔ってしまい、銃撃は終わった。 」 このような食い違う証言に直面し、連邦議会はフォレストを戦闘における戦争犯罪の罪で告発したが、最終的には無罪とした。
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