プラム・ポイント・ベンドの戦い
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「河川防衛艦隊」の記事における「プラム・ポイント・ベンドの戦い」の解説
ニューオーリンズに留まった分遣隊は壊滅したものの、モントゴメリー船長のもとで北部に向かった8隻の分遣隊は、十分ではないにしても、ある程度の報復を成し遂げた。1862年5月10日、ミシシッピのピロー砦を少し下った地点、プラム・ポイント・ベンド付近にて、河川防衛艦隊の分遣隊は、北軍西部砲艦隊(英語版)(ミシシッピ川戦隊)に対する小規模な奇襲攻撃を図った。戦闘はメンフィスから直線距離で40マイル(64km)、ミシシッピ川を辿れば50マイル(80km)の地点で起こった。当時、西部砲艦隊の各艦は分散していた。砲艦1隻と臼砲筏が目立つ位置にあり、また他の砲艦が援護可能な範囲から外れていた。北軍側は事前に南軍艦隊接近の報告を受けていたにも関わらず、小型哨戒艇(ピケットボート)を派遣していなかった。したがって、プラム・ポイントの木の向こうに煙が見えるまで、北軍は敵艦の接近について一切の警戒をしていなかった。 全く準備が整っていなかったため、北軍艦は急いで蒸気機関を回し始めたものの、戦闘には1隻ずつしか参加できなかった。したがって、南軍艦は妨害を受けることもなく、1隻に集中して衝角攻撃を試みることができた。複数回の衝角攻撃を受けた北軍艦シンシナティ(英語版)およびマウンドシティ(英語版)は、沈没を避けるため、浅瀬への座礁を余儀なくされた。西部砲艦隊の多くが蒸気機関を回して戦闘に参加する準備が整ったと見ると、モントゴメリーは撤退を命じた。彼らが撤退までに負った損害は極めて軽微だった。 モントゴメリーが作戦の目的を明らかにしなかったので、南軍にとっての勝利の価値を論ずることは困難である。2隻の砲艦を無力化したことは十分に戦果と呼びうるが、いずれも数週間以内に修理され、任務に復帰している。したがって、モントゴメリーによる奇襲は、贔屓目に見ても、北軍の予定をわずかに遅延させる程度の意味合いしかなかった。
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