プラム・ポイント・ベンドの戦いとは? わかりやすく解説

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プラム・ポイント・ベンドの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/02 14:46 UTC 版)

河川防衛艦隊」の記事における「プラム・ポイント・ベンドの戦い」の解説

ニューオーリンズに留まった分遣隊壊滅したものの、モントゴメリー船長のもとで北部向かった8隻の分遣隊は、十分ではないにしてもある程度報復成し遂げた1862年5月10日ミシシッピピロー砦を少し下った地点、プラム・ポイント・ベンド付近にて、河川防衛艦隊分遣隊は、北軍西部砲艦隊(英語版)(ミシシッピ川戦隊)に対す小規模な奇襲攻撃図った戦闘メンフィスから直線距離40マイル(64km)、ミシシッピ川を辿れば50マイル(80km)の地点起こった当時西部砲艦隊の各艦は分散していた。砲艦1隻と臼砲筏が目立つ位置にあり、また他の砲艦援護可能な範囲から外れていた。北軍側は事前に南軍艦隊接近報告受けていたにも関わらず小型哨戒艇(ピケットボート)を派遣していなかった。したがって、プラム・ポイントの木の向こうに煙が見えるまで、北軍敵艦接近について一切警戒をしていなかった。 全く準備整っていなかったため、北軍艦は急いで蒸気機関回し始めたものの、戦闘には1隻ずつしか参加できなかった。したがって南軍艦は妨害を受けることもなく、1隻に集中して衝角攻撃試みることができた。複数回の衝角攻撃受けた北軍シンシナティ英語版)およびマウンドシティ(英語版)は、沈没避けるため、浅瀬への座礁余儀なくされた。西部砲艦隊の多く蒸気機関回して戦闘参加する準備整ったと見ると、モントゴメリー撤退命じた。彼らが撤退まで負った損害極めて軽微だった。 モントゴメリー作戦目的明らかにしなかったので、南軍にとっての勝利価値論ずることは困難である。2隻の砲艦無力化したことは十分に戦果呼びうるが、いずれも週間以内修理され任務復帰している。したがってモントゴメリーによる奇襲は、贔屓目見ても、北軍予定わずかに遅延させる程度の意味合いしかなかった。

※この「プラム・ポイント・ベンドの戦い」の解説は、「河川防衛艦隊」の解説の一部です。
「プラム・ポイント・ベンドの戦い」を含む「河川防衛艦隊」の記事については、「河川防衛艦隊」の概要を参照ください。

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