ピロー砦事件
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「ネイサン・ベッドフォード・フォレスト」の記事における「ピロー砦事件」の解説
1877年10月30日、「ニューヨーク・タイムズ」は、「南軍の偉大な騎兵士官、ベッドフォード・フォレスト将軍が、弟のジェシー・フォレスト大佐の家で、今夕7時半に死んだ」と報じた。 しかし、「ザ・タイムズ」は「フォレストが過去のことになったのは、軍事的な勝利のためではなかった」とも報じた。 「 彼の名前が永遠に不可分に結び付けられるのは、文明化した戦いを汚した最も残忍で冷血な虐殺の一つに関連してだ。「ピロー砦のフォレスト」はその行為が彼に贈る表題であり、それによって彼は現代の世代にも記憶され、それによって彼は過去の者になる。虐殺は1864年4月12日に起こった。ピロー砦はメンフィスの上流65マイル (104 km)にあり、その占領はフォレストの世に知られたテネシー州襲撃の間に実行された。当時、テネシー州は事実上北軍の支配下にあった。...3月遅く、(フォレストは)テネシー州に入り、その行軍経路は最も冷血な性格のままに、激しい憤りと残忍さで特徴付けられた。彼は行く先にある小さな守備陣地の大半を占領し、それぞれ守備兵に対して、彼が陣地を強襲した場合は如何なる慈悲も与えないと脅して、降伏を勧奨した。4月12日、彼はピロー砦の前に現れた。この砦は500名の部隊で守られており、そのおよそ半分が黒人だった。フォレスト軍は約5,000名から6,000名だった。彼の最初の攻撃は完璧な急襲であり、守備隊の指揮官は戦闘の初期に戦死した。しかし守備隊は勇敢に戦い、2時になっても敵は物理的な優位を得られなかった。フォレストは休戦の旗を送り、無条件降伏を要求した。短い相談の後で、指揮を引き継いでいたブラッドフォード少佐が、降伏を拒否する言葉を伝えた。即座に攻撃のラッパが吹かれた。敵は砦から100ヤード (90 m)に迫っており、ラッパの音で叫びながら防壁に突進した。守備兵は恐怖に捉われ、兵士は武器を投げ捨てて、川の方に逃げ場を求め、近くの峡谷、丸太、藪、樹木、更に実際に身を隠せる所なら何処でも隠れた。それは無駄だった。占領された砦とその近辺は人間の修羅場になった。 フォレストは自隊の損失が戦死20名、負傷60名と報告した。また攻撃の夜に北軍兵228名の遺体を埋めたとも述べている。このことに対して彼は、ピロー砦の占領が「流血の多い勝利であり、卑劣なヤンキーの記者によって虐殺に作られただけだ」と主張した。虐殺の報せは国中に恐怖と怒りの発作を起こさせた。 」 この北部の新聞の死亡記事で次のようにも述べた。 「 戦争以降、フォレストはメンフィスに住み、主たる仕事はピロー砦事件の言い逃れをするのに費やされたと見られる。彼はそれについて幾通かの手紙を書き、それを出版し、公衆の前で行う演説でも常にそれについて何かを語った。彼はあたかも染み付いた血の染みを拭い去ろうとしているかのように見えた。 」 ピロー砦で起こったことについて矛盾する報告がある。262名いた北軍の有色人兵のうち90名のみがこの戦闘を生き延びた。損失は砦の白人守備兵でも高く、約500名のうち205名だけが生き延びた。ベッドフォードの南軍は、捕まえた兵士にたいする残虐行為で告発された。ある者は生きたまま焼かれたとも主張された。 フォレストの兵士は北軍の傷ついた兵士が中にいる兵舎に火を着けたとされた。北軍ダニエル・ヴァン・ホーン中尉の報告書では、この行動が北軍のジョン・D・ヒル中尉によって齎された命令によっていたと言った。ヴァン・ホーンは「砦の降伏は無かった。士官も兵士も降伏や慈悲を求めることを決してしないと宣言していた」とも報告した。 これらの主張は、南軍の兵士がその家族に宛てて書かれた手紙の内容と全く矛盾しており、そこには南軍兵士の一部による無慈悲な残忍さが書かれていた。 敵意が終息した後で、フォレストはアメリカ海軍の蒸気船シルバークラウド号に北軍黒人兵のうち最も重傷の者14名を運ばせた。黒人兵のうち39名の捕虜を上層部に送った。
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