南北戦争の残り期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 08:19 UTC 版)
「チャールズ・ストーン」の記事における「南北戦争の残り期間」の解説
ストーンは釈放後ワシントンの自宅に戻って命令を待ちながら、その汚名をすすごうと試み続けた。逮捕や収監という事実にも拘わらず、ストーンの任務はまだ続いていた。1862年9月、メリーランド方面作戦が行われていた頃、マクレランが陸軍省にストーンを復任させるよう求めたがスタントンが断った。1863年早々にジョセフ・フッカー少将がポトマック軍指揮官に就任すると、フッカーはストーンに参謀長就任を求めたが、スタントンはこの要請も拒否した。2月27日(ストーンの妻マリア・クラリーが死んだ数日後)、ストーンはやっと逮捕された証言について聴聞されることを許され、マクレランがもはや上官ではなかったので、自由に告発に答えることができた。ストーンはこのことで委員会も満足させ、委員会はその後間もなくストーンの容疑を晴らす改定された調査結果を発行した。この事実が知られると、「ニューヨーク・タイムズ」紙は次のような論説を載せた。 ストーン将軍は最も目に余る悪事に、すなわち戦争の歴史の中で国の側におそらく最悪の汚点をつけた悪事に耐えてきた。 ストーンは5月まで任務が無かった後に、メキシコ湾方面軍任務を命じられ、ポートハドソンの包囲戦では降伏勧告員となり、レッド川方面作戦ではナサニエル・バンクス少将の参謀長を務めた。しかし、1864年4月4日、スタントンがストーンに准将としての志願兵任務の解除を命じ、正規軍の中の大佐の位に戻した。ピーターズバーグ包囲戦では短期間ポトマック軍の旅団長を務めたが、最後は戦争が終わる前の1864年9月13日に陸軍から除隊した。
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