その後の使用と復旧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/08 16:36 UTC 版)
包囲戦の後、砦はほとんど廃墟であった。その復旧する試みもほとんどされずに、1841年1月13日、テキサス共和国はアラモの聖域をカトリック教会に返還する法律を可決した。テキサス併合の後、アメリカ合衆国はその廃墟となった建物の所有を主張し、陸軍の補給基地の目的で南北戦争まで使用した。南北戦争の間はアメリカ連合国が建物を使用したが、戦争の後、合衆国政府は再び所有を主張し1876年まで使用された。 建物の所有権は19世紀後半の間ずっと議論された。1883年4月23日、テキサス州は公式にカトリック教会から境界の建物を購入し、市が建物の管理費を負担することを条件にサンアントニオ市に譲渡した。1890年代から1905年にかけて、歴史家で教師のアディナ・デ・サバラと、自身の資産で史跡を修復した慈善家のクララ・ドリスコルの、二人の女性が史跡の保護に責任を持った。彼女らは修道院の扱いで衝突し、ドリスコルは取り壊しを望んだ。 1905年1月25日、テキサス州立法府は、商社に占有された伝道所の一部を購入する決議を可決し、その後、現在建物を管理して訪問者を受け付けている婦人団体「テキサス共和国の娘たち」の保護に置くことが指示された。この建物の所有権を巡る論争は20世紀の間も持続した。1908年、デ・サバラは3日間バリケードを張って立てこもり、商業的な搾取を防ぐ試みに成功した。建物は、特に1936年のテキサス100年記念の時などに、時折修復され続けた。1960年12月19日にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。 2015年の第39回世界遺産委員会にて、「サン・アントニオ・ミッションズ」の構成資産として世界遺産リストに加えられた。ただし、評価のポイントは伝道所の建築・文化的意義にあり、アラモの戦いなどは評価の対象に含まれていない。
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