その後の侵攻計画とその終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:37 UTC 版)
「フランスのアイルランド遠征」の記事における「その後の侵攻計画とその終焉」の解説
フランスのアイルランド侵攻の目論見は、完全な失敗に終わった。大勢の捕虜を除けば、何隻もの艦が沖合にほぼ2週間停泊していたにもかかわらず、フランス軍の兵は誰一人としてアイルランドへの上陸を果たせなかった。12隻の艦がこの遠征で失われ、2000人を超える兵士と水兵が溺死した。侵攻計画は破棄され、オッシュと生き残った兵たちはドイツでの戦闘に回されて、9か月後にオシュは、戦死ではなく自然に息を引き取った 。フランス海軍は、アイルランド侵攻で上陸できなかったことを批判されつつも、アイルランドにたどり着けたことと、イギリス艦隊の主力部隊に遭遇することなく帰国した点は称賛された。この業績により、1797年2月の、ウェールズのフィッシュガード(英語版)への上陸や、1798年半ばのアイルランド侵攻といった、その後の侵攻計画にはずみがついた。 イギリスでは、侵攻を企てたフランス艦隊への、海軍の対応に激しい批判が巻き起こった。侵攻を阻止するために海峡艦隊とブレスト艦隊が配属されたのに機能せず、フランスに敗北を負わせたのは、コーク駐留の小規模戦隊、あるいは、艦隊に属さないフリゲート艦の艦長ペリューだったからである。ブレスト封鎖の指揮官を、少将のロジャー・カーティス(英語版)に取って代わられたコルポイズは、2月と3月に、ビスケー湾に大々的な軍を展開して、フランスのさらなる軍事活動を阻止した。加えて、カディス沖のジョン・ジャーヴィス指揮下の艦隊にも増員が行われ、ジャーヴィスは2月14日にサン・ビセンテ岬の海戦で勝利を収めた。これらの大規模な配置は、艦の常駐の船員の不人気を買い、船員たちが4月にスピットヘッドとノアの反乱を起こしたため、海峡艦隊は活動できなくなった。フランス軍はその時もなお、アイルランド侵攻での損失を埋め合わせつつあったが、まだ十分ではなかった。 アイルランドでは、フランスの遠征軍の侵攻失敗は大きな失望の原因となった。航海を通じてアンダンタブルに乗艦していたウルフ・トーンは、両手でバントリー湾の両側に触ることができるような気がしたと報告した 。蜂起は延期され、トーンはヨーロッパでの支持を集め続けて、オランダで艦隊を立ち上げて侵攻を企てようとしたが、その計画はキャンパーダウンの海戦で潰えた。1798年、イギリスの取り締まりによりユナイテッド・アイリッシュメンの指導者たちが逮捕され、これによりアイルランド反乱(英語版)が引き起こされた。この時までにフランスは、小規模な部隊をどうにか集めて8月にアイルランドに到着したが、その時暴動はほぼ終わっており、ジャン・ユンベールに率いられた不十分なフランス軍は、9月にバリナマックの戦い(英語版)で降伏した。翌月に計画された次の計画も失敗に終わった。戦隊がトーリー島の戦いで阻止され、敗北を喫したためだった。ウルフ・トーンはこの海戦で捕らえられ、刑務所で自殺を図った。トーンの死、フランスの軍事的敗北、アイルランドへの反逆者への報復、この3つが一緒になったことで、ユナイテッド・アイリッシュメンとフランスの侵攻計画には終止符が打たれた。
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