キャンパーダウンの海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 07:24 UTC 版)
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キャンパーダウンの海戦 | |
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![]() 「キャンパーダウンの海戦、1797年10月11日」(トマス・ウィットコム画(1798))、オランダ艦隊旗艦ヴリヘイドと交戦するイギリス艦隊旗艦ヴェネラブル |
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戦争:フランス革命戦争 | |
年月日:1797年10月11日 | |
場所:オランダ、キャンパーダウン沖の北海 | |
結果:グレートブリテン王国の決定的勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
アダム・ダンカン(en) | デ・ウィンテル(en) |
戦力 | |
24隻 | 25隻 |
損害 | |
戦死193名、負傷622名 | 戦死520名、負傷952名、捕獲11隻 |
キャンパーダウンの海戦 (キャンパーダウンのかいせん、英:Battle of Camperdown、蘭:Zeeslag bij Kamperduin)は、フランス革命戦争中の1797年10月11日にグレートブリテン王国(イギリス)艦隊とオランダ[1]艦隊で戦われた海戦。
ダンカン提督指揮のイギリス艦隊と、デ・ウィンテル提督指揮のオランダ艦隊は、オランダ、アルクマール北西のキャンパーダウン村の沖合で戦い、イギリス艦隊がオランダ艦隊を破って北海の制海権を得た。
この海戦はイギリス海軍の水兵ジャック・クロフォードが提督旗をマストに釘づけにした逸話[2]によっても知られている。
背景
1797年の間ずっと、ダンカンはデン・ヘルダーとテッセルでオランダ艦隊を封鎖していた。オランダ艦隊は、アイルランドで計画されている反乱を支援するフランス軍のアイルランド上陸を掩護することを目的としていた。そしてさらに、約50,000のオランダ軍がスコットランドに上陸して、スコットランド人組織の助けを借りてスコットランド中南部を制圧する計画もあった。しかし港での長い待機は、船の必需品を減少させ、そのうえ士気をもむしばんでいた。オランダは、ダンカンの封鎖艦隊が数週間にわたってたった4隻しかいなくなっていることに気づいていなかった。その他の艦は後に「ノアの反乱」として知られている騒動に巻き込まれていた。この反乱は、首謀者の絞首刑によって終わり、兵は任務に戻った。
9月遅く、オランダは侵略作戦を断念した。イギリス海軍本部はこれを知って、ダンカンに戦隊をヤーマスへ移してそこで再編成するように命じた。オランダはその機会をとらえて北海に進出し、彼ら自身の乗組員の不穏な動きを抑え、かつ孤立したイギリス艦を襲うことを企てた。イギリス艦隊はカッター「ブラック・ジョーク」とラガー「スペキュレーター」の警報によってテッセル島沖に集結し、オランダ艦隊の帰港を待った。
戦闘
2つの艦隊は、オランダの18マイル沖合で遭遇した。イギリス艦隊は24隻で南東へ向かっており、オランダ艦隊は25隻が単縦陣を組み、東南東に向かっていた。イギリス艦隊は8年後のトラファルガーの海戦を思わせる2列の陣形で攻撃した。ダンカンは「ヴェネラブル」に座乗して東側のグループを率い、副将リチャード・オンズロー中将は「モナーク」で西側のグループを率いた。この攻撃は、オランダ艦が海岸近くの浅瀬に逃れるのを防ぐために急がなければならなかった。ダンカンは「全艦追撃セヨ」の信号を掲揚し、各艦が機会があり次第個々に戦闘に入ることを許した。全艦が押し進む中、艦長の一部にはためらう動きもあった。イギリス艦隊は最も大胆なリーダー、ダンカンとオンズローを先頭にした2つの戦列を形成することになった。
「ヴェネラブル」はオランダ戦列を突破して、デ・ウィンテルの旗艦「ヴリヘイド」を風下側から攻撃した。他にも数隻のイギリス艦がオランダ戦列を突破し、両艦隊とも両舷で戦闘を行った。オランダ艦の一部はなんとか東に避退したが、旗艦「ヴリヘイド」を含む11隻が捕えられた。しかし、イギリス艦も大きな損害を受けており、避退したオランダ艦を追撃することはできなかった。イギリスの死傷者は戦死220人、負傷812人、オランダ側は戦死540人、負傷620人だった。死傷率の類似性は、双方ともに相手の船体を狙うという砲撃戦術を取ったことを反映している。(Mariner's Mirror誌23号(1937年刊行)ではイギリス側の戦死193、負傷622、オランダ側の戦死520、負傷952としている。)
この海戦では、船の大きさと武装についてイギリスが優位にあり、また訓練と演習についても同様だった。イギリス艦の数隻はカロネード砲で武装していた。それは射程は短いが重い砲弾を発射でき、近距離戦では破壊的な影響を持っていた。捕獲されたオランダ艦はみな、修繕が不可能なほどに破壊されていた。
デ・ウィンテル提督は旗艦を散々に破壊され(マストをすべて失っただけでなく、乗組員の半数以上を殺されるか、傷つけられていた)、降伏を余儀なくされてイギリスの捕虜となった。彼はダンカンに自らの帯剣を手渡そうとしたが、ダンカンはそれを拒絶し、その代わりに彼の手を握った。ダンカンとデ・ウィンテルは、どちらも大柄な男だった(伝えられるところではダンカンは6フィート4インチ(190cm)あった)。デ・ウィンテルは後に、「ダンカン提督と私のような巨大な物体が2つとも、この日の徹底的な虐殺を生き延びたことは驚くべきことだ。」と語っている。
海戦の影響
この海戦の結果、フランス軍の最初のアイルランド遠征は1798年8月まで行われず、反乱はその前に鎮圧された。
イギリス艦隊
(おおよその戦闘序列順)
- 第1グループ
- ランカスター(Lancaster):64門
- アイシス(Isis):50門
- ベリクー(Belliqueux):64門
- ベドフォード(Bedford):74門
- アーデント(Ardent):64門
- ヴェネラブル(Venerable):74門、ダンカン提督旗艦
- トライアンフ(Triumph):74門、エシントン艦長
- サース(Circe):28門
- 第2グループ
- ボーリュー(Beaulieu):40門
- エジンコート(Agincourt):64門
- アダマント(Adamant):50門
- ヴェテラン(Veteran):64門
- モナーク(Monarch):74門、オンスロー中将旗艦
- パワフル(Powerful):74門
- ディレクター(Director):64門、ウィリアム・ブライ艦長
- モンマス(Monmouth):64門
- ラッセル(Russell):74門、トロロープ艦長
- モンタギュー(Montagu):74門、ナイト艦長
- その他
- マーチン(Martin):カッター
- ローズ(Rose):カッター
- キング・ジョージ(King George):カッター
- アクティブ(Active):カッター
- ディリジェント(Diligent):カッター
- スペキュレーター(Speculator):ラガー
オランダ艦隊
(戦闘序列順)
- 戦列艦
- Gelijkheid:64/68門 - 「ベリクー」と「ランカスター」により捕獲(3.10pm)
- Beschermer:50/56門
- Hercules:64門 - 炎上のうえ捕獲
- Admiraal (Tjerk Hiddes) De Vries:64/68門 - 「アイシス」により捕獲(3.00pm)
- ヴリヘイド(Vrijheid):74門 - デ・ウィンテル提督旗艦、捕獲(3.15pm)
- Staten-Generaal:74門
- Wassenaar:64門 - 「パワフル」・「ヴェテラン」により捕獲(2.00pm)
- バタヴィア(Batavier):50/56門
- Brutus:74門 - Bloys van Treslong少将旗艦
- レイデン(Leyden):64/68門
- Mars:44門
- Cerberus:64/68門
- Jupiter:74/72門 - Reyntjes中将旗艦、捕獲(1.45pm)
- Monnikendam:40/44門 - 捕獲(2.00pm)後破壊
- ハールレム(Haarlem):64/68門 - 「アダマント」により捕獲(1.15pm)
- アルクマール(Alkmaar):50/56/52門 - 捕獲(2.30pm)
- デルフト(Delft):50/54/60門 - 捕獲(2.15pm)、10月15日2.30am 沈没
- 小型艦(戦闘には参加せず)
- Embuscade:32門 - 捕獲されたが座礁し、奪還
- Heldin:32門
- Minerva:24門(シップ型コルベット)
- Waakzaamheid:24門(シップ型コルベット)
- Ajax:18門(ブリッグ型コルベット)
- Atalanta:18門(ブリッグ型コルベット)
- Daphne:18門(ブリッグ型コルベット)
- Galathée:18門(ブリッグ型コルベット)
- Haasje:6門(通報艦 ?)
- (艦名未詳):(通報艦)
(2番目に書かれた砲門数は「マリナーズミラー」誌第23巻(1937年)による。)
脚注
- ^ 1795年にフランスの侵略を受けてオラニエ公ヴィレム5世が亡命してから、1806年にルイ・ボナパルトが君主制を敷くまでの間、オランダはバタヴィア共和国(Bataafsche Republiek)と称しフランスの衛星国になっていた。
- ^ 戦闘中、提督旗を掲げた旗艦「ヴェネラブル」のマストが破損したが、提督旗を下ろすことは降伏を意味することでもあったため、クロフォード水兵は自発的にマストにのぼり、提督旗をそこに釘付けにした。これによりクロフォードは国王からじきじきに言葉を掛けてもらうなどの栄誉に浴し、愛国美談となったが、その後酒で身を持ち崩したという。
参考文献
- 「マリナーズミラー(Mariner's Mirror)」誌、第23巻(1937年)
- 『ネルソンの戦争(Nelson's War)』、Peter Padfield(Book Club Associates, London, 1976年)
外部リンク
- キャンパーダウンの海戦と戦列艦「デルフト」の概要[リンク切れ]
- 戦列艦「デルフト」の復元(ロッテルダム)[リンク切れ]
関連項目
キャンパーダウンの海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 07:45 UTC 版)
「アダム・ダンカン」の記事における「キャンパーダウンの海戦」の解説
「スピットヘッドとノアの反乱」も参照 1797年、イギリス海軍は、テセル沖に停泊中のオランダ海軍主力部隊に対して、部隊を移動させる必要があった。ダンカンの指揮のもと、予備艦も含めた多くの艦がグレート・ヤーマスに集結した。出動の準備中の4月に、スピットヘッドの海峡艦隊で大規模な反乱が起き、このため動きが取れなくなった。暴力に訴えた反乱ではなかったが、船員たちが、賃金の値上げと艦内の住環境改善を求めてひそかに工作を行っていた。リチャード・ハウが船員たちと交渉した末、大部分が解決して、船員たちは仕事に戻った。しかし、このスピットヘッドの反乱に続いて、5月にノア近くの停泊地でも同様の事件が起こった。ことが深刻になったため、ダンカンは、ノアの反乱者に対しての攻撃要請の知らせを受け取った。これがダンカンの艦隊に大きな不満を呼んだ。結果、ヤン・デ・ウィンテル(英語版)中将率いるオランダ軍の出航が知らされた時、ダンカンのヴェネラブルと共に出航した艦はわずかだった。 港を出たヴェネラブルはアダマント(英語版)、フリゲート艦サースと合流し、信号による作戦でテセル沖で軍事行動を取り、敵軍に、艦隊の大半が視界の外にいるように思わせた。ダンカンは6月半ばまでテセル沖にとどまり、その後グレート・ヤーマスに戻った時、反乱の終結を知った。再びオランダとの海戦の準備が行われた。テセルでは、デ・ウィンテルがブレストへ南下し、フランスと共にアイルランドに侵攻する計画を練っていたが、逆風のため出航できず、この案は8月に破棄された。オランダの計画変更の知らせを受け、10月1日、海軍本部はダンカンに、グレート・ヤーマスに退いて再装備と修理をするように指示を出した。 詳細は「キャンパーダウンの海戦」を参照 当時フランスの影響下にあったオランダでは、デ・ウィンテルの意見は聞き入れられず、10月の早い時期に艦隊に出航が命じられた。この時、ヘンリー・トロロープ艦長のラッセルがテセルを監視しており、ダンカンはトロロープから、オランダ軍の出航の知らせを受け取り、すぐに錨を上げて、オランダの海岸方向へ順風に乗って進んだ。艦隊がテセルに戻っていないことに気付いたダンカンは、南にかじを切って、10月11日の朝に、岸から7マイル(約11キロ)の所に艦隊がいるのを発見した。艦隊はエフモントとキャンパーダウンの町のほぼ中間地点にいた。岸からの風がじかに吹きつける中、オランダ軍は大胆なされていた。もしすぐさま攻撃がなされない場合は、攻撃の手が伸びない浅瀬へすばやく逃げ込む態勢であることがはっきりしていた。ダンカンはすぐさま、オランダ軍と陸地の間に割込んで、敵の退却を断ち切る必要があると判断し、艦隊をまとまった配置にしようと考えた。イギリスの艦隊はオランダ軍のそれほど整然としてはいなかった。しかしダンカンは、航海時の命令としては異例ながら、二手に分かれるように命令を出した。これはヴェネラブル艦上と、サー・リチャード・オンズロウ(英語版)艦長のモナーク艦上でのすばやい判断が何よりも大事であり、ダンカンは敵陣を通過して敵の風下に着くように信号を出した。 これは非常に掟破りな行為だった。今なお役立つ戦術書"Fighting Instructions"のやり方からは大きく外れていたが、1794年6月1日のリチャード・ハウのフランスとの海戦のように、この方法で勝利した先例はあった。キャンパーダウンの海戦においては、イギリスは完璧な勝利を得た。この戦闘は長時間にわたり、多くの流血があった。ダンカンは高度な戦術には長けておらず、この勝利は、戦艦の一騎討ちという初歩的な理論の上に成り立っていたが、敵陣を通過させることにより、敵軍の全面撤退を阻止した。また、砲撃の兵が訓練を積んでいたということで、イギリスの方に利があったが、オランダも頑なに勇気を奮って、イギリスの艦隊に多大な損失を与えた。
※この「キャンパーダウンの海戦」の解説は、「アダム・ダンカン」の解説の一部です。
「キャンパーダウンの海戦」を含む「アダム・ダンカン」の記事については、「アダム・ダンカン」の概要を参照ください。
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