キャンパーダウンの海戦
キャンパーダウンの海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 07:45 UTC 版)
「アダム・ダンカン」の記事における「キャンパーダウンの海戦」の解説
「スピットヘッドとノアの反乱」も参照 1797年、イギリス海軍は、テセル沖に停泊中のオランダ海軍主力部隊に対して、部隊を移動させる必要があった。ダンカンの指揮のもと、予備艦も含めた多くの艦がグレート・ヤーマスに集結した。出動の準備中の4月に、スピットヘッドの海峡艦隊で大規模な反乱が起き、このため動きが取れなくなった。暴力に訴えた反乱ではなかったが、船員たちが、賃金の値上げと艦内の住環境改善を求めてひそかに工作を行っていた。リチャード・ハウが船員たちと交渉した末、大部分が解決して、船員たちは仕事に戻った。しかし、このスピットヘッドの反乱に続いて、5月にノア近くの停泊地でも同様の事件が起こった。ことが深刻になったため、ダンカンは、ノアの反乱者に対しての攻撃要請の知らせを受け取った。これがダンカンの艦隊に大きな不満を呼んだ。結果、ヤン・デ・ウィンテル(英語版)中将率いるオランダ軍の出航が知らされた時、ダンカンのヴェネラブルと共に出航した艦はわずかだった。 港を出たヴェネラブルはアダマント(英語版)、フリゲート艦サースと合流し、信号による作戦でテセル沖で軍事行動を取り、敵軍に、艦隊の大半が視界の外にいるように思わせた。ダンカンは6月半ばまでテセル沖にとどまり、その後グレート・ヤーマスに戻った時、反乱の終結を知った。再びオランダとの海戦の準備が行われた。テセルでは、デ・ウィンテルがブレストへ南下し、フランスと共にアイルランドに侵攻する計画を練っていたが、逆風のため出航できず、この案は8月に破棄された。オランダの計画変更の知らせを受け、10月1日、海軍本部はダンカンに、グレート・ヤーマスに退いて再装備と修理をするように指示を出した。 詳細は「キャンパーダウンの海戦」を参照 当時フランスの影響下にあったオランダでは、デ・ウィンテルの意見は聞き入れられず、10月の早い時期に艦隊に出航が命じられた。この時、ヘンリー・トロロープ艦長のラッセルがテセルを監視しており、ダンカンはトロロープから、オランダ軍の出航の知らせを受け取り、すぐに錨を上げて、オランダの海岸方向へ順風に乗って進んだ。艦隊がテセルに戻っていないことに気付いたダンカンは、南にかじを切って、10月11日の朝に、岸から7マイル(約11キロ)の所に艦隊がいるのを発見した。艦隊はエフモントとキャンパーダウンの町のほぼ中間地点にいた。岸からの風がじかに吹きつける中、オランダ軍は大胆なされていた。もしすぐさま攻撃がなされない場合は、攻撃の手が伸びない浅瀬へすばやく逃げ込む態勢であることがはっきりしていた。ダンカンはすぐさま、オランダ軍と陸地の間に割込んで、敵の退却を断ち切る必要があると判断し、艦隊をまとまった配置にしようと考えた。イギリスの艦隊はオランダ軍のそれほど整然としてはいなかった。しかしダンカンは、航海時の命令としては異例ながら、二手に分かれるように命令を出した。これはヴェネラブル艦上と、サー・リチャード・オンズロウ(英語版)艦長のモナーク艦上でのすばやい判断が何よりも大事であり、ダンカンは敵陣を通過して敵の風下に着くように信号を出した。 これは非常に掟破りな行為だった。今なお役立つ戦術書"Fighting Instructions"のやり方からは大きく外れていたが、1794年6月1日のリチャード・ハウのフランスとの海戦のように、この方法で勝利した先例はあった。キャンパーダウンの海戦においては、イギリスは完璧な勝利を得た。この戦闘は長時間にわたり、多くの流血があった。ダンカンは高度な戦術には長けておらず、この勝利は、戦艦の一騎討ちという初歩的な理論の上に成り立っていたが、敵陣を通過させることにより、敵軍の全面撤退を阻止した。また、砲撃の兵が訓練を積んでいたということで、イギリスの方に利があったが、オランダも頑なに勇気を奮って、イギリスの艦隊に多大な損失を与えた。
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キャンパーダウンの海戦
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「キャンパーダウンの海戦における戦闘序列」の記事における「キャンパーダウンの海戦」の解説
詳細は「キャンパーダウンの海戦」を参照 キャンパーダウンの海戦はフランス革命戦争中の1797年10月11日、北ホラントのカンペルデュイン(オランダ語版)沖で、アダム・ダンカン提督率いるイギリス艦隊とヤン・ウィレム・デ・ウィンテル(英語版)提督率いるオランダ艦隊との間において行われた海戦である。フランス第一共和政は海戦の2年前にオランダ共和国へ侵攻し、バタヴィア共和国を樹立していた。1797年の初め、バタヴィア共和国海軍(英語版)の艦隊は、ブレストに集結しフランス大西洋艦隊と連合した上でアイルランドに侵攻せよとの命令を受け、準備を進めていた。その後しばらくたって、給金と待遇の改善を求めて水兵がスピットヘッドとノアの反乱を起こしたことによりイギリス艦隊は機能不全に陥り、2ヶ月もの間イギリス海峡を防衛する戦力が存在しない状態であった。しかし、侵攻作戦の準備がまだ完了していなかったオランダ艦隊は、反乱に参加しなかったダンカン率いる少数の戦隊が未知のイギリス艦隊が視界外に存在するかのように見せかけるためにでたらめの信号を送り続けたことも影響して、根拠地であるテセルから出港することはなかった。 1797年の10月までにアイルランドへの侵攻計画は中止された。イギリス北海艦隊は再び戦力を回復した。艦隊がグレート・ヤーマスにて補給を受けていた10月10日、ダンカンの元にオランダ艦隊が出撃したとの情報が入り、これを受けてイギリス艦隊はオランダ沖へと向かったところ、テセルへと帰還するデ・ウィンテルの艦隊と会敵した。沿岸域の浅瀬にオランダ艦隊は単縦陣を組んでこれを迎撃しようとしたが、イギリス艦隊は陣形に乱れが生じていた。そのためイギリス艦隊は二つの集団に分かれてしまったが、結果的にオランダ艦隊の前衛(英語版)と後衛(英語版)を各個撃破する形となり、オランダ艦隊を圧倒。デ・ウィンテル提督の旗艦、フレイヘイト(英語版)を含む11隻のオランダ艦船を鹵獲した。しかし、帰路に於いて鹵獲した艦船の内3隻を失い、残った戦利艦も現役として使用に耐えうるものはなかった 。この戦闘において双方とも多くの死傷者を出したが、これはオランダ艦隊とイギリス艦隊ともに敵の乗組員に最も損害を与えることのできる船体を狙うように訓練されていたことに起因する。 また、海戦の結果には双方の艦隊に蔓延していた社会的な不安も影響した。イギリス海軍では依然として続く反乱による多大な悪影響が生じていた。また、オランダ海軍の水兵はフランスの姉妹共和国としての自国の立場に不満を持っており、士官とは対照的に追放されたオラニエ=ナッサウ家を支持する者が多かった。特にオランダ艦隊は長きにわたる海上封鎖により士気と練度が低下しており、結果として熟練度の高いイギリス艦隊の乗組員と比べて水夫や砲手の質が劣っていた。加えて、オランダの艦船は水深の浅いオランダの沿岸を航行する必要性から喫水を浅くするために構造を弱く造られていたことにより、外洋での行動を前提としたイギリスの艦船と比べて、戦闘時に不利になってしまった。ただ、オランダ戦列艦は砲弾一発当たりの重量においてイギリス艦隊よりも優れており、武装の充実したブリッグやフリゲートも含めるとこの差が顕著に現れた。同時代のイギリスとは対照的にこれらの小型艦は積極的に戦闘で用いられ、戦列艦と戦列艦との間の隙間を埋める役割を果たした。
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