スピットヘッドとノアの反乱
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スピットヘッドとノアの反乱(スピットヘッドとノアのはんらん、Spithead and Nore mutinies)は、1797年に連続して発生したイギリス海軍の水兵の大規模な反乱。
- 1 スピットヘッドとノアの反乱とは
- 2 スピットヘッドとノアの反乱の概要
- 3 1797年に発生したその他の反乱
スピットヘッドとノアの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 00:02 UTC 版)
「ジョン・コルポイズ」の記事における「スピットヘッドとノアの反乱」の解説
コルポイズがまだ海軍で任務についていた1797年、4月にスピットヘッドとノアの反乱が勃発した後に、コルポイズの最も特筆すべき行動が起きた。スピットヘッドの海峡艦隊で、軍上層部に反発した水兵たちがストライキを起こし、いくつもの権利を要求した後に反撃行動に出た。海軍本部との折衝後何日か経って、4隻の艦だけが任務に戻ったものの緊張が高まった。4隻は出帆を拒否されたが、このすべてがコルポイズの指揮下にあり、海峡艦隊の残りの艦は、反乱の起きている艦を孤立させるためにセント・ヘレンズ (ワイト島)(英語版)へ移された。5月1日、海軍本部から艦隊と共に命令が届き、士官たちに、反乱を強硬な手を使って中断させること、反乱の首謀者たちを逮捕するようにというものだった。多くの士官たちは、この命令が新たな反乱の引き金となることを悟っており、命令のことをもみ消そうとしたが、成功しなかった。 セントヘレンズの水兵たちは士官たちにまたも盾つき、スピットヘッドのコルポイズは、彼の艦「ロンドン」に乗務している水兵が反乱を起こさないかの確認のために、緊急の処置を取った。水兵たちは甲板に呼び出され、彼らが抱えているであろう不満を吐き出すように要請された。乗員たちは何もないと述べ、コルポイズは彼らを解散させた。セントヘレンズの艦隊から来た反乱分子による、水兵への見えざる影響を心配したコルポイズは、元々ロンドンに乗り組んでいた水兵を甲板下に隔離しようとした。これに水兵たちは激怒し、提督に会わせるように要求した。コルポイズは水兵の代表者が甲板に出ることを禁じたため、彼らはハッチ[要曖昧さ回避]に殺到した。コルポイズは動転し、士官と海兵隊とに、ハッチをよじ登ってくる乗員たちを撃つように命じた。海兵隊の多くがこの命令を拒んだが、多くの水兵たちが、コルポイズが射撃をやめさせる前に命を落とした。 今やすっかり反乱軍と化した乗員に圧倒され、コルポイズは降伏を迫られた。射撃の全責任を取り、このことで絞首刑をちらつかされた士官の一人の助命のために、コルポイズと仲間の士官は捕らえられて監禁され、一方で「ロンドン」は出帆してセントヘレンズで艦隊に合流した。乗員ははじめは、射殺のことでコルポイズと士官たちを裁判にかけようとしたが、士官たちはみな後になって陸上で釈放された。コルポイズは後に、仕えたくない士官として反乱兵たちにはっきりと名指しで要求された。この時コルポイズは第一線を退いた。しかしこれは彼が取った行に対するの判決ではなく、反乱が起きる前から、コルポイズの健康は悪化しており、退役を要請されていたためであった。
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